死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

12 世界の哲学・宗教にみる死生観

 

◎一霊四魂

 日本の古神道においては、一霊四魂という考え方がある。人の「霊」は四つの「魂」からできているというのである。一霊とは直霊(なおび)、四魂とは荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さちみたま)である。これは日本書紀にも名称が出てくるが、その内容については詳しく描かれていない。

 まず、霊魂は荒魂として出現する。これは荒々しく、猛々しい魂である。戦時や災害時に現われるともいう。

 この荒魂は祭祀を受けて鎮められることによって、和魂というおだやかな性質に変わる。つまり、同一の霊魂の二種類の側面を表わしたのが荒魂と和魂ということになるが、神社の中には同じ神を荒魂と和魂に分けて祀っている例もある。

 奇魂は、超自然的な力によって奇瑞をもたらし、また病気を治したり、健康などをもたらす力があるという。一方、幸魂は、狩猟や収穫における幸をもたらすものといわれている。

 江戸時代の国学者本居宣長によれば、幸魂・奇魂は和魂の効能を示したものであって、単独の霊魂を指すものではないともいわれている。

 

◎やがてカミとなる死者の霊

 日本では、人が死ぬと、霊は家の裏山や森に昇ると信じてきた。山に昇った荒魂は清められた祖霊となり、やがてカミとなる。カミは、里に降りてくるときは田の神や歳の神とされた。またいつしか氏神や鎮守の神としても祭られるようになった。

 恨みを抱いて死んだ人は、「御霊」などと呼ばれる怨霊になって人々に崇り、それを祀ることによって守護神に変えるということが多く行なわれた。たとえば、北九州の太宰府に左遷されて亡くなった菅原道真天満宮(天神)となった。保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、その後も都に何度も異変をもたらしたとされている。また、承平天慶の乱を起こした平将門は、関東地方の守護神として神田明神などに祀られている。

 現在でも「守護霊」などといった概念が仏教系の宗教団体で語られることがあるが、本来は日本土着のアニミズム(万物に霊魂が宿ると考える原始的信仰)に端を発するものといえよう。

 

 

 陰陽の説によれば、人は死後、魂と魄(はく)とに分かれる。魂は陽に従って天に昇り、魄は地に降り、陰に従うという。つまり魄のほうは死後も地上にとどまるわけだ。そのため、魂は位牌にまつり、遺体は土に埋めて土葬とする。こうしておけば、死者は、死後も生前と同じように生活すると考える。

 魂はどこかに浮いているから、魄のほうを墓の中でしっかりと保管しておくなら、それを再び合わせれば死者はよみがえるという。それが、今の日本にも伝わる「先祖供養」や「お盆」の考え方にもなる。位牌を仏壇に置いたり、お盆に死者が帰ってくるからお祀りするというのは、実は仏教ではなくて、中国の儒教的な思想だったというのは驚きである。

 

 

 ギリシア神話の項に登場した琴の名手オルペウスは、その後教団を作った。彼の詩を聖典として礼儀を行ない、清浄な禁欲的生活をすることによって、天界に救われると説く。霊魂は人間の真の自我ともいうべきもので、もとは天上界において諸神と生活をともにしていた。つまり、人は神々であった。しかし、天上界で犯した罪によって、地上の世界に堕落し、肉体を受けて流転しなければならないという刑罰に処せられたのである。

 この説は、後にピタゴラスプラトンに影響を与えた。

 ピタゴラス(前五七O頃〜前四九七頃)は、「肉体は滅んでも霊魂は不滅である」と説いた。魂は、もともと住んでいた宿を去ると、常に新しい住居を求めて、そこに住み着く。魂は、動物の身体から人間の身体に移ることもあれば、人間の身体から動物の身体に居を変えることもある。

 ピタゴラス自身は、トロイア戦争のときにスパルタの王メネラーオスの投げ槍を受けて死んだトロイアの将エウポルボスである、と語っていた。アバスの町のユーノー神殿で楯を見たピタゴラスは、それはエウポルボス(つまり前世の自分)が左手に持っていた楯である、と言い当てたという。

 プラトン(前四二七〜前三四七)は、死後の人間の魂は生前の業によって各種の動物にはいるが、汚れのない魂は神々のもとに帰ると考えていた。食いしん坊で不摂生で酒浸りの人の魂は、ロバに入る。不正や専制や略奪を好んだ人の魂は、オオカミやタカやトビになる。哲学や知を求めて生を送った人の魂は、完全に清められているので、神々の種族に帰一する。この考え方は、仏教的な輪廻転生観にきわめて近いといえよう。

 

 

「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」

(ヨハネによる福音書8.42)

「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り......」

(ヨハネによる福音書 13.3)

 神のもとにある世界から生まれてきて、死後は神のもとに帰るというイエスの言葉は、少なくとも今の生だけでなく直前と直後の生については述べていると解釈できよう。

 また、ヨハネの黙示録などの記述を見るならば、天地創造という「はじめ」と、世界の終わりという「終末」が登場する。人は肉体の死後、眠り続ける。そして、終末のとき、神の怒りの日、すなわち最後の審判の日に、すべての死者はよみがえる。そして、生前になしたことによって裁かれるのである。

 

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」

(ヨハネの黙示録 20.12~15)

「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」

(ヨハネの黙示録 21.6~8)

 

カトリック

 キリスト教の最大の宗派であるローマ・カトリックでは、人は死後、次のような場所に行くと説かれている。

 

・天国ーーイエスを信じ、徳に生きた人が行く。ここには肉の復活の希望がある。

・辺獄(リンボ=地獄の辺土)ーーイエス以前に生れた義人、徳高い異邦人たち、洗礼を受けないで死んだ幼児は父祖の辺獄に行く。地獄の苦しみはないが、神を見ることはできない。

・煉獄(プルガトリウム)ーーキリストを信じたが、罪を犯しその償いが果たされていない人間が、浄化のために行く。ここにいる人間は、罪悪感の為、火に焼かれるような苦しみを味わう。もはや行為によって償いをすることができないので、苦悩によって償う。

・地獄(ゲヘナ/インヘリウム)――邪悪の人間が行く。

 

◎ダンテ

 ダンテ(一二六五〜一三二一)の「神曲」は、地獄篇・煉獄篇・天国篇から構成されている。

 地獄は漏斗状の多層構造を持つ世界だ。ここでは死者が生前の罪を裁かれ、それに応じて罰を受けている。地獄の門を過ぎて嘆きの河(アケロン)を渡った後、下に向かって全部で九圏がある。その名称は「無信仰地獄」「邪淫地獄」「美食地獄」「貪鉄乱費地獄」「憤怒地獄」「異端地獄」「暴虐地獄」「欺瞞地獄」「反逆地獄」だ。さらに、各地獄にはいくつかの濠がある。

 最下層に位置する地獄「反逆地獄」は絶対地獄「氷地獄(コキュートス)」ともいわれ、さらに四層に分けられる。最下層の地獄は、ジュデッカと呼ばれる。

 煉獄は第一環道から第七環道まで。ここは、罪を浄化するための世界であり、神を賛美しつつも苦しみを味わう。驕慢、嫉妬、念怒、怠惰、浪費、食食、色欲という七つの罪が浄化されたならば、煉獄の頂上・地上楽園に到達する。

 そして、そこからさらに上昇すると、天国へと行けるのだ。天国は第一天から順に月(誓約を破った者)、水星(英傑)、金星(恋愛者)、太陽(賢者)、火星 (信仰者)、木星(義人)、土星(瞑想家)、恒星(聖人)の場所である。第九天は天使の住む原動天、第十天(至高天)は光明天ともいい、神の座である。

 これらの世界のどこに行けるかは、すべてその人の行ないにかかっているのである。

 

◎アルス・モリエンディ(「往生術」)

 十五世紀、ペストの大流行で死と直面した人々はいかに死ぬかと考え、「キリスト教死者の書」とでも呼ぶべき小冊子が何種類も登場した。それを総称してアルス・モリエンディと呼ぶ。その一種である「論争詩」の内容は、臨終の床を囲んで、天使と悪魔が肉体を離れようとする霊魂をめぐって争うドラマ。また、死にゆく人の経験する意識状態について、死にかけた人の証言から記したり、死後の魂の旅で遭遇する諸問題に備える指導をしている。つまり、キリスト教徒としていかに死ぬか、臨終にどうふるまえばよいかを説いているのである。

 

プロテスタント

 十六世紀以降始まった「新教」ともいわれるプロテスタントでは、あらゆる人間は生まれながらにして罪人であり、死後、永遠の地獄行きが定められていると説かれる。ただ、キリストを信じ、「義」とされた人々だけが永遠に天国に入ることができる。

 死後の状態は自分の力によるものではない。キリストの死と復活の恵みに対する信仰によって決定され、死後は神の御手に委ねられている。カトリックとは異なって辺獄・煉獄などもなく、死者に対する供養のようなものも一切無駄であると述べている。

 

 

 モハメッド(五七一〜六三二)が始めたイスラム教では、死後の世界はすべて神アラーの手にゆだねられている。そして、生前の行ないによって行くところが違ってくる。

 信仰のある者が死ぬと、白い衣を着た天使がやって来て、神のいる安らぎの場所に招く。死者の魂は麝香の甘美な香りを放つので、天使たちはその香りをかいで味わうという。その魂は天使から次の天使にと引き継がれ、ついには信仰深き魂のいる天国へと至る。天国の住人たちは、その魂を喜んで迎え、地上に残してきた人々のことについていろいろと尋ねるという。

 不信仰の者が死ぬと、怒りの天使がやって来る。その死者の魂は不快な悪臭を放ち、天使たちは気分が悪くなる。墓の天使たちから尋問を受けたあと、不信仰者たちのいる地獄に連れていかれることになる。

 ただし、地獄へ落ちた人であっても、ほんのわずかでも信仰心があれば、地獄の苦しみを永く味わったあとで、神によって救われると信じられている。

 イスラムシーア派の祖アリー((六〇三〜六六一)はマホメットの従弟にして女婿であるが、死後の様子を次のように語っている。これはキリスト教的な死生観と似ているといえよう。

「死後、魂は肉体を抜け出し、家族縁者の前に空しい屍となって横たわる。やがて、彼を地中に埋葬した後は、訪れる人も絶える。

 そしてついに彼の運命の記録の最後のページが繰られ、最後の審判の下るのを待つばかりとなる。

 最後の審判の日には、天地はぐらぐらと揺れ動き、地中に埋葬されていた者たちはことごとく引き出される。そして、神はそれぞれ隠していた彼らの行動を審問する。そして彼らを二つの群に分け、一方には恵みを、他方には罰を下す。現世で神の命に忠実に従っていた人々は神の館を永遠の住みかと定められ、神の命に背いていた人々は燃えさかる火の上着を着せられる。......」

 

  • 古代インドの輪廻転生説

 

◎五火説

 輪廻転生思想といえばインドを思い出すが、そのインドで輪廻転生思想がはっきりした形で登場するのは、紀元前八〜七世紀ごろ、「五火説」「二道説」としてである。これをセットにして五火二道説として説いている「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」という文献をもとにまとめてみよう。

 五火説は、死者が生まれ変わる過程を祭祀行為になぞらえて説いたものだ。祭祀では、まず、火神アグニに供物が投ぜられる。つまり、火の中に供物や犠牲獣が投げ込まれるわけだ。この、火の中に供物を投ずる行為を「ホーマ(護摩)」と呼ぶ。火神アグニは供物を上空にいる祭神に届ける。この祭りが終ったら、祭壇などの一切を破壊するという。

 一方、死者の転生の過程は次のような五回の祭儀から成るというのである。

 

1 世界という祭火(薪=太陽、煙=太陽光線、焔=昼、炭=月、火花=星)の中に

供物=「信」が投げ込まれる。

 そこから「ソーマ王」(月世界の王)が出現する。

2 雨雲という祭火(薪=風、煙=霧、焔=稲妻の閃光、炭=稲妻、火花=畿)の中に

供物=「ソーマ王」が投げ込まれる。

そこから「雨」が出現する。

3 大地という祭火 (薪=歳、煙=虚空、焔=夜、炭=四方、火花=四維)の中に供物=「雨」が投げ込まれる。

そこから「食物」が出現する。

4 男という祭火(薪=ことば、煙=気息、焔=舌、炭=眼、火花=耳)の中に 供物=「食物」が投げ込まれる。

そこから「精液」が出現する。

5 女という祭火(薪=陰部、煙=性的誘惑、焔=陰門、炭=挿入、火花=性の喜び)の中に供物=「精液」が投げ込まれる。

そこから「胎児」が出現する。

 

 少々ややこしい表現であるが、要約すれば「死者は一度月世界に行き、雨となって地上に落下し、そこから植物などに取り込まれて食物となり、それを食べた男の精子となって、女の胎内に注ぎ込まれて胎児となり、またこの世に生まれる」という考え方である。

 

◎二道説

 これに続いて、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」では二道説が説かれる。死んだ生き物の死後のプロセスには、三つの道(主な二つと、どちらでもない一つ)があるというのである。

 

1 神々の道五火説を知る人、出家して苦行をする人は、死後、ブラフマン(宇宙の根本原理) へと導かれていく。

 

2 祖霊の道世俗の生活をしながら、祭祀や善行や布施をする人は、祖霊の世界に入り、そこから五火説に従って再び母胎に入ることになる。この世において好ましい行いをしていた人は、好ましい母胎である人間の母胎に入るが、汚らわしい行いをしていた人は、汚らわしい母胎である犬や豚などの母胎に入る。

3 小さな生き物たちは、このどちらの道をとらず、生まれればすぐ死に、死ねばすぐ生まれ

る。

 

 なお、やや新しい『カウシータキ・ウパニシャッド』の二道説では、死者はみな月に赴き、そこで裁きを受けるということになっている。いずれにせよ、輪廻転生する「祖霊の道」(2)と、それから永遠に脱却する「神々の道」(1)の二つが説かれたのである。二道はさらに精密に描かれ、天(神)、人、畜生、餓鬼、地獄の「五趣輪廻説」と、それに阿修羅を加える六道輪廻説が説かれるようになるが、これは次の仏教でもその世界観を受け継ぐことになる。

 

  • 仏教の輪廻転生思想

 

◎釈迦

 ゴータマ・シッダールタこと仏陀釈迦牟尼釈尊、お釈迦さま。前六〜五世紀ごろ)は、このインド的な輪廻転生観を受け継いでいる。

 ジャータカ(本生譚、本生経)という説話集は、釈迦の前生の生涯、その中での善行などを述べた物語を集めたものである。これは輪廻思想に基づいている。前生の釈迦は「菩薩」と呼ばれ、神・人間・ウシ・サル・シカ・魚などとなっている。南伝仏教では五百四十七話もの本生譚があるという。日本では、「日本霊異記」「今昔物語集」などにこれらのストーリーのいく つかが取り入れられている。法隆寺の玉虫厨子の台座絵には、前世の釈迦が飢えた虎に自分の身を投げ出して食べさせた、という「捨身飼虎図」が描かれていることで有名だ。

 そのほかの経典などにも、釈迦は確かに前世の存在を認めている発言があるようである。

 

◎輪廻する主体は存在しない?

 ところが、仏教徒の中で輪廻を否定する考え方がある。そもそも、輪廻するためには輪廻の主体がなければならない。ところが、釈迦はその主体である「我」はない、つまり「無我」を説いたのだ、という。自分などというものはもともと存在しない、というのだ。そうなると、輪廻する主体がないのだから、輪廻そのものもない、ということになってしまう。

 大乗仏教では「無我」を強調する。「無我」こそ仏教であって、「我」があると主張するのは仏教ではない、と断言する学者もいるようである。だが、釈迦はそのようなことを説いていなかったらしい。

......仏教に特徴的な思想といえば、「無我」ということになろう。

 「私」、つまり自我というものがあると思うからこそ、自己愛やエゴイズムや生命への執着など、ありとあらゆる欲望が生じる。あらゆる欲望は、自己を保存し、拡大しようとするところに発するといっても言い過ぎではない。

 しかも欲望の追求はきりがないから、いつかは挫折してかえって欲求不満と苦しみをもたらす。......だから、自我は錯覚であること、無我であることを悟ることが、解脱にとって最も大切なこととなる。これは日本の仏教では、禅宗で最も強調された考えだ。座禅の目標も、とどのつまりは無我の境地ということなのである。

......

 ところがその後、仏教学やインド学関係の本を読みあさるようになって、厳密な文献学的研究によって、仏陀は実は無我の教えなど説かなかったということが明らかにされていることを知った。

 たとえば、東方学院院長の中村元氏といえば押しも押されぬ仏教学インド哲学の大家だが、その『自我と無我―インド思想と仏教の根本問題』(平楽寺書店、一九六三) によると、仏陀が説いたのは無我の説ではなく、非我の説なのだという。つまり、「自我はない」という説ではなく、「自我は......ではない」という説なのである。何かを「私」である、と思い込んでも、それは実は「私」ではない、というわけだ。

 なんのことはない。仏陀の教えは、数百年前のヤージナヴァルキャの「ではない、ではないのアートマン」の説と同じではないか。仏陀=シッダールタはクシャトリヤ(王族) の出身だから、婆羅門の聖典である『ウパニシャッド』は読んでいなかっただろうが、なんらかの精神的影響は否定できないだろう。

 ただ、仏陀は、自我とは何か、といった問いをそれ以上つきつめても、悟りには役に立たないとして、議論を打ち切ったらしい。

(渡辺恒夫『輪廻転生を考える 死生学のかなたへ」講談社

 

 ヤージニャヴァルキャとは、釈迦から数百年さかのぼるインドの哲人である。  ヤージニャヴァルキャは、各自の志向にもとづいてなされる善悪の「業(行ない)」こそが輪廻転生の原動力であり、その志向を抱く「自己(我、アートマン)」が輪廻の主体であると明らかにした。また、「業」とは、本来の意味は「行ない」であるが、それが目に見えない潜在的・ 実体的な力に転じて蓄積される、とも説いている。 この真実のアートマン、真実の我は、肉体などとは全く別のものであり、しかも肯定的な言葉によっては規定できない。

 

「かのものは『あらず、あらず』〔としかいいようのない〕アートマンで、不可捉であります。なぜなら把捉されないからです。〔かのものは〕不壊であります。なぜなら、壊されないからです。〔かのものは〕執著と無縁であります。なぜなら、執著されないからです。〔かのものは〕束縛されることなく、よろめくことなく、傷つくことがありません......」

(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』)

 

 ヤージュニャヴァルキヤが一貫して追い求めたものは、真実のアートマンである。 世間の人びとがアートマンだと思っているものは、真実のアートマンではない。というのも、「アー トマン」を意味するとされる「わたくし」ということばを主語として、世間の人びとは、それにさまざまな述語 (属性、限定)を連結させるからである。「わたくしは〜である」と世間の人々は口にし、それがアートマンであると思っている。 しかし、真実のアートマンは、いかなる属性も限定ももたない。つまり、真実のアートマンは、こうである、ああである、というように、ことば(概念)によって捉えることはできない。あえて真実のアートマンをことばで表現しようとすれば、右の「〜」に入りうるあらゆることばを羅列し、そして片端か ら「〜にあらず」というしかない。

 ところで、こうしたものとしての真実のアートマンを感得するためには、それなりのことを試みなければならない。いわゆる「修行」である。......

 

 最初期の仏教は、「無我説」というよりは「非我説」というべきものであるが、これもまた、ヤージュニャヴァルキヤの「真実のアートマン」論の仏教版といってさしつかえない。

宮元啓一「仏教誕生」筑摩書房

 

唯識派のアーラヤ識説

 ところが、やがて仏教徒は「非我」ではなく「無我」、つまり「我というものは存在しないのだ」と考えるようになる。しかし、そうなると、何が輪廻する主体なのか、わからなくなってしまう。輪廻する本体が存在しないのに、どうやって輪廻が起こるのか。その矛盾を何とか説明するために現われたのが、唯識派という大乗仏教の一系統の「アーラヤ識」説である。

 唯識説によると、心は八層(八識)から成るという。まずは五識(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、 触覚)、そして思考や意志を意味する「意識」、さらにその奥に自我(とわたしたちが思っている)「マナ識(末那識)」、さらにその奥の無意識である「アーラヤ識(阿頼耶識)」が存在しているという。

 

 心の根底にアーラヤ識という無意識を想定し、アーラヤ識の果てしなき流れが輪廻の主体だとしたのである。

 そして、「自我」だと思われているものは、無意識の流れにポッカリ浮かんでは消える泡であって、この泡が消えるまでの短い時間が私たちの一生であり、次の泡が流れに浮かんで現われるのが、「転生」つまり、生まれ変わりとしたのである。

(渡辺恒夫『輪廻転生を考える 死生学のかなたへ」講談社

 

 結局、無我という解釈をしたがために、アーラヤ識なるものを作り上げなければならなかったわけだが、アーラヤ識と「真実のアートマン」は同工異曲のもの、つまり同じものを指しているといってもよさそうだ。

 なお、この「泡」という表現は、『方丈記』にもみられる。

 

◎極楽浄土

 さらに下って、仏教の中でも「浄土教」が広まった。その土台となった「浄土三部経」は紀元後に作られたものであり、さらにそれが中国・日本で独自の信仰を有するようになったのである。これは現在、日本では浄土宗(法然)・浄土真宗親鸞)として広く信仰されている。

 浄土とは「清浄国土」の略。現実の穢土に対して、仏の世界が浄土とされた。

 浄土にも三種類想定されている。浄仏国土、常寂光土、来世浄土である。

 浄仏国土とは「仏国土を浄める」という意味。つまり、世界を浄土化しようというものであって、菩薩がその作業を努めるとされている。

 常寂光土は、永遠・絶対の浄土を意味する。これは相対的・限定的な枠組みを越えた絶対的な世界なのである。だから、このふつうの世界においても感得されうるという。

 それに対して、一般的に浄土と言ったときに想定されているのは、来世浄土のことだ。これは、死後赴く来世の浄土である。東西南北に想定されており、

・東方 浄瑠璃世界 薬師仏

・西方 極楽世界 阿弥陀仏

・南方 離塵垢心世界 文殊菩薩

・北方 知水善浄功徳世界 普賢菩薩

の四種類があるとされている。このなかで最も重要視されたのが西方極楽浄土であるため、浄土といえば極楽浄土、ということになった。

 

浄土 ......この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界に行けば仏に会えるということで考えられた浄土である。阿弥陀仏の西方極楽世界に往生するという信仰が日本にいたるまで最も盛んとなり、死にさいして阿弥陀仏が迎えにくる(来迎) という信仰もおこり、それらを教理化して浄土念仏思想が発達し、浄土変相図や来迎図などの絵が描かれた。

 

極楽 サンスクリット原語は〈楽のあるところ〉という意味で、阿弥陀仏の住する世界をさす。

中村元ほか『岩波仏教辞典」岩波書店

 

 極楽浄土の自然は、何でも黄金や宝から成っているものとされている。恐らく、浄土経典の作られたクシャーナ王朝時代は、インド古代・中世史を通じて、金貨の流通量が最も多かったし、また最も良質のものが通用していた時代であったので、このような希望的空想がかき立てられたのであろう。......極楽浄土の荘厳、うつくしさは、全然でたらめな空想の所産ではなくて、当時の富者階級の生活が理想化され誇張されて、そこに反映しているのであろう。

 ところで、極楽浄土は罪や汚れの無い清らかなところでなければならないのに、それが黄金臭を紛々とまきちらしているとは、人間とは何と貪欲な、エゲツナイものなのだろう。しかし、また「あらゆる見事な宝石で作られた牢獄に入ることなかれ」という経典の文句は、現代のわれわれに、痛烈な皮肉として響いて来るではないか。

 (中村元早島鏡正紀野一義訳註『浄土三部経 上・下』岩波文庫

11 世界の神話にみる死生観

ギリシア神話

ギリシア神話の冥界は二種類が伝えられている。

「死後の世界は、広大な大洋の彼方、大地の果てにある」

とも書かれているが、

底知れぬ洞穴や、地下に潜る河(アケローン河)が

通路として通じている地下の世界であるとも語られている。

ちなみに、アケローンとは「苦悩」という意味である。

 

冥界の入り口には、

黒いポプラと実を結ばない柳が生えているペルセポネーの森がある。

ここから門に至ると、番犬の怪物ケルベロスが待ちかまえている。

この番犬は五十の頭を持ち、青銅のような響きを発するのである。

 

冥府には地下の川アケローンが流れている。

この川には、コーキュートス河、プレゲトーン河、

レーテー河、ステュクス河が合流していた。

ステュクス河は冥府を九回取り巻いており、

レーテー河の水を飲んだものは過去を忘れる。

 

アケローン河を渡るには、

冥界の渡し守カローンに頼まなければならない。

これは、日本でいう三途の川、

臨死体験に登場する川を思わせる描写である。

 

三途地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことで、

......死者が冥界に入るまえに渡るとされる川が三途の川である。

これを説く『地蔵十王経』は中国に始まって日本で広まった偽経で、

三途の川の観念は仏教本来のものではない。

......川辺には脱衣婆がいて死者の衣をはぎ、

懸衣翁がそれを衣領樹の枝にかける。

この情景は、

平安中期以後の文学や六道絵に散見する。

ギリシア神話のアケローン川と渡し

守カローンの観念に似るところがある。

 

(中村元ほか『岩波仏教辞典』岩波書店)

 

冥府の王ハーデースとその一族

 

冥府の王ハーデースとは「見えない者」を意味する。

また、その別名プールートーンは「富」を意味する。

そして、彼の臣下にはタナトス(死)とヒュプノス(眠り)が従っている。

そのほか、死の時を迎えた人を冥界に連行する女神ケールたちは、

別名「ハーデースの犬」とも呼ばれる恐ろしい姿で戦場に現われた。

そのほか、親殺しや誓いを破った者を罰する女神にエリーニュスたちがいる。

ハーデースは、

大地の女神デーメーテールの娘コレーを

誘拐して妻としようとした。

野原で花を摘んでいたコレーを、

大地から出現したハーデースが突然さらっていってしまう。

母のデーメーテールはあちこちをさまよい、

さらには一年間ひきこもってしまった。

その結果、大地は作物を生み出そうとしなかったのである。

そこで神々の王ゼウスは、

デーメーテールと娘を再会させることを認め、

なだめようとした。

さらわれたコレーはすでにペルセポネーと名前を変えていたが、

母子は無事再会する。

しかし、ペルセポネーは冥府のザクロの実を食べてしまっていた。

そのため、完全に地上に戻ることは許されなくなったのである。

結局、ペルセポネーは一年の三分の一を冥府で過ごすことになり、

それをデーメーテールが悲しんで作物があまり育たないのが

「冬」ということである。

なお、冥府の食物を食べると地上に戻れないというのは、

日本神話のイザナミ神と似ている。

イザナミ(伊邪那美)神は、

火の神であるカグツチ(迦具土)神を

生んだときに死んでしまい、

黄泉国に至る。

それを追って夫のイザナギ(伊邪那岐)神が黄泉に至る。

イザナギ

「愛しい我が妻よ、私と君が一緒に作った国は

まだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう」

というと、

イザナミ

「悔しいことです。

なぜもっと早く来てくれなかったのですか。

私は黄泉国のかまどで煮たものを食べてしまいました。

もう現世には戻れません」

と答えるのである。

 

◎冥界での裁き

死者の霊魂が冥界へやってくると、

ハーデースと三人の補佐役たち

(アイアコス、ミーノース、ラダマンテュス)

によって裁かれる。

生前は神を敬い、正義を愛したアイアコスは、

死後、冥界の鍵を握り、ヨーロッパ人を裁く者となった。

ラダマンテュスはアジア人を裁いた。

この裁判の結果、

罪重き者はタルタロスという地獄へ送られ、

永遠の苦しみを与えられることになる。

タルタロスは三重の壁に取り巻かれ、

通路はダイヤモンドの扉で閉ざされている。

ハゲタカについばまれる者、

飢えと渇きに苦しめられる者、

がけの上へ岩を押し上げる者......。

一方、神に愛された者、

正しい行いをした者は、

エーリュシオンの野で喜び多い死後の生活を送る。

エーリュシオンには雪も雨も嵐もない。

そよ風が年中吹き、幸福な住みかはさわやかであったという。

ハーデースの裁きは、閻魔大王の裁きに似ているようである。

 

◎オルペウス物語

死と生の物語で有名なのがオルペウスの物語である。

もともとトラーキアの王で、

すべてのものを感動させる竪琴の名手オルペウスは、

死んだ妻エウリュディケーを冥界へ迎えに行った。

冥府の番犬タルタロスが行く手を阻んだが、

オルペウスの竪琴と歌に酔いしれて、うずくまって泣きだした。

無事に通過したオルペウスは、

次に渡し守カローンに出会う。

そこで、力ローンの若いころの船歌を歌い、

またもや感動させて、首尾よく渡してもらうことに成功した。

そうして冥府の王ハーデースと、

王妃ペルセポネーのいる死の玉座の前にまで至った。

オルペウスはエウリュディケーの美しさと不幸を歌い、

王妃を感動のあまり泣かせたのだった。

冥府の王は、妻を連れて帰ることを認めるかわりに、

オルペウスに一つの条件を示す。

「決して振り返って妻を見てはならない」と。

もし、振り返ったらならば、

妻は死者の国に戻らなければならない。

オルペウスは妻を後ろに従えて、冥府を戻っていった。

しかし、ハーデースは彼をアウェルヌスの洞窟内の松の森に導く。

もう少しで洞窟を抜け、地上にたどり着くというところで、

松の落葉のせいで、今まで聞こえていた妻の足音が聞こえなくなってしまった。

妻がいなくなったのかと思ったオルペウスは、思わず振り返る。

その瞬間、すぐ後ろにいたエウリュディケーの姿は、

かき消すように消えていったのである。

 

北欧神話

 

北欧神話には、九つの世界が登場する。

アース神族の国アースガルズ、

ヴァン神族の国ヴァナヘイム、

光の妖精の国アールヴヘイム、

地下の黒い妖精の国スヴァルトアールヴヘイム、

巨人族の国ヨトゥンヘイム、

小人の国ニダヴェリール、

人間の世界ミズガルズ、

炎の民の国ムスペッルスヘルム、

そして北方にある極寒の霧の国ニヴルヘイム。

このニヴルヘイムを統治する女神ヘルこそが死を司るとされている。

 

ケルト神話

 

かつてはヨーロッパ全土に広がっていたが、

現在はアイルランド島とその周辺にしかいないケルト民族。

彼らの伝えるケルト神話の死生観は、

繰り返し型の霊界転生といえよう。

人は死の国から生まれてきて、死の国へ帰る。

そしてまたこの世界へ生まれてくる。

明らかに転生思想があったのだが、

それはやがてキリスト教に征服されていったのだった。

ケルトの宗教であるドルイド教では、霊魂は不滅で、

死後は別の場所へ移ると説いていた。

また、死と冥府の王たるドンヌという神がいる。

人は「ドンヌの家」で生まれ、

死後再びそこに帰ると信じられていた。

これもまた転生思想といえる。

 

エジプトの死生観

 

古代エジプトでは死後の生命が信じられていた。

そして、人間を構成する要素は、

カー、バー、 アク、名前、影

であると考えられていた。

 

一つ目が「カー」(生命体)で、

死後、肉体から分離して自由となり、

霊界を行き来する力を得る。

それと同時に、この世との結びつきを保つ上で

重要な役割を果たし続ける。

つまり、死者を保護し、冥界へ導くのだ。

その存在は、墓の中の肉体と密接なつながりがあり、

捧げられた供物を取りに肉体に戻ることで、

その力を維持することができるのである。

通常、両手を挙げた人の姿か、

あるいは高く掲げた二本の腕として表現される。

 

二つ目の人間の構成要素は「バー」(魂)である。

肉体を離れ、墓の外へ出て行き、

死者が生前楽しい時を過ごした、

さまざまな場所を訪れることができる。

このようにして死者は、

その死後も地上との結びつきを持ち続けることができたという。

バーは、人の頭を持った鳥の姿で描かれる。

そして、第三の要素「アク」があった。

これは、死後の人々を助けることができる超自然の力であった。

冠羽をもつ朱鷺の姿で描かれる。

 

◎ピラミッドと死後の世界

 

死後も死者の魂は永遠に生き続けるが、

そのためには墓にいろいろな生活用品や食物を

供え続けなければならなかった。

死者が死後も食物を食べるには、

遺体をできるだけ完全に保存する必要がある。

そのためにミイラが作られるようになった。

また、ミイラが破損した場合でも魂を維持するための呪文が用意された。

しかし、墓が放置されると、生命力(カー)は飢え、

最後には餓死してしまう。

有名なピラミッドは、王が天空に昇っていくための儀式空間、

最新式施設だったというのが定説となっている。

ただし、王が天へ昇っていくためには、

神官による儀礼が不可欠だった。

王は天にのぼり、貴族は地上で死後も享楽を楽しむ、

というのがエジプト人の大方の「死後の進路」であったという。

 

◎『エジプトの死者の書

エジプトの死生観といえば、エジプトの死者の書である。

古代エジプトでは、

死後の世界において安楽な生活を送れるよう、

そのための経文が書かれた。

古王朝(紀元前二十八〜二十三世紀)の時代は

ピラミッドの玄室の壁面に、

中王朝(紀元前二十一世紀〜十七世紀)の時代は

ひつぎの底や外側に「柩文」として書かれた。

さらに新王朝(紀元前十六世紀〜十一世紀)の時代は、

パピルスの巻物に書かれるようになった。

これは、死後、楽園に到達するためのガイドブックとしての内容を持っている。

 

死者の書は葬儀にあたって神官が読むものだが、

死者を唱えることができるよう、死者と一緒に埋葬された。

また、買い手の名前を記入できる販売用のものもあった。

この『エジプトの死者の書』の本来の呼称は

『日のもとへ現われ出づる」という。

全部で百九十章から成るが、

現存する各種の死者の書のうち、

それがすべて含まれたものはない。

 

最初に『エジプト人死者の書』として出版されたのは、

ドイツのエジプト学者レプシウスが一八四二年に

「ツリン・パピルス」という百六十五章の文書をまとめたものである。

また、 最も有名なのは、

第十八王朝の中ごろ(紀元前十五世紀)の書記官アニのパピルスで、

現在は大英博物館に収められている。

 

◎冥界の審判

死者の書のクライマックスは、冥界における審判の場面である。

まず、オシリス神を中心とする四十二人の裁判官のいる広間に入る。

そして、死者はその四十二神の名前を知っていることを宣言し、

さらに生前に三十八の悪い行ないを犯していないことを告白する。

その後、死者は大きな天秤の前につれてこられる。

 

天秤の一方の皿には、

法と真実の象徴であるマアトの羽毛が載せられており、

もう一つの皿には死者の心臓が載せられる。

そして、審判者である十二神が見守る中、

犬の顔をした死の神アヌビスが目盛りを調べる。

秤をはさんだ向かい側には死者の守護霊が立ち、

頭上には死者のへその緒の入った箱が置かれている。

この背後には、死者の誕生と教育を司った女神が二人立っており、

へその緒の箱の後ろには死者の魂(バー)が鳥の形をしてとどまっている。

 

天秤の右手には、

学問と知恵の神トートがパレットとペンを持ち、

審判記録を書き留めようとしている。

その後ろには怪獣アミメットが控えていて、

審判で有罪になった死者をすぐに食べようと待ちかまえている。

そこで、死者は針が動かないように祈りの言葉を捧げる。

ここでマアトの羽と心臓が釣り合えば、

死者は罪なき者として認められ、

オシリス神が統治する冥界で永遠の命が保証される。

それは生前の身分には関係がない。

しかし、罪ある者という判決が下ると死者の心臓は、

頭がワニ、上半身はライオン、下半身はカバという

怪獣アミメットに食べられてしまい、

消滅してしまうのである。

 

◎「平和の野原」

オシリスの楽園には、罪なき者であれば、

立派な墓や副葬品がなくても入ることができる。

それは百の地平線の下、

あるいはいくつかの島々の上の緑豊かな土地にあるとされている。

「平和の野原」と呼ばれるこの楽園は、

周囲を清流が巡り、豊かな実りが約束されている。

死者は何の痛みも苦しみもなく、

生前と同じように楽しく毎日をすごすことができる。

ただし、そこで生活するには、農作業だけはやらなければならない。

富裕な者たちは、

その農作業を肩代わりしてくれるウシャブティという

小さな像を墓に収めたという。

 

10 さまざまな死後の世界観

松本滋教授による死後の世界観の3タイプ

宗教史・比較宗教を専門とする聖心女子大学の松本滋教授によると、

古来人間が展開してきた死後の世界観(教授は「死後生」と呼ぶ)には、

大きく分けて3つのタイプがあるという。

 

(1)一度生まれ型――

人間は、この世に生まれ、

この世で生きるだけ。

死んだらそれで終わり。

 

(2)二度生まれ型――

この"世"の先に、あの世、(来世) が存在する。

人間の生はこの世だけでなく、

何らかの形でもう一度、

別の世に生を受けて生きる。

 

(3)繰り返し生まれ型――

人間は(あるいは人間以外のものも)この世で生きるだけでなく、

何度も生まれ変わる。

したがって、"前生"も"来世"も多数存在するという考え方。

 

(1)の「一度生まれ」型というのは、

「死後の世界は存在しない」

という考え方だ。

現代日本ではこの考え方が学校で教えられ、

正しいものとされている。

唯物論的な考え方といえよう。

 

(2)は、この世から死んで、

あの世(霊界、天国、極楽、地獄、冥府など)に至るという考え方。

これは神話や宗教の世界に数多く見られる。

現代人の多くは(1)を建前としているが、

実際には水子供養・先祖霊・地縛霊などが受け入れられており、

(2)の二度生まれ型が広く行き渡っていると思われる。

 

(3)は、死んでは生まれ変わり、

死んでは生まれ変わり、

を繰り返すパターン。

いわゆる「輪廻転生」思想がこれにあたるといえよう。

 

さて、この三つの考え方であるが、

どれも矛盾させずに考えることができる。

つまり、(3)の「繰り返し生まれ」型の世界観は最も広く、

そのうちの一部のみ(つまり、この世と次の生のみ)を認識した場合に

(2)の「二度生まれ」型となり、

そして死後のことを全く考えられなければ、

(1)の「一度生まれ」型ということになるだろう。

 

言い換えれば、死後の転生については、

(2)のような仕組みになっている、

という人は、(3)のようになっている、

という人よりも見聞きした範囲が狭いという

可能性があるということだ。

 

「二つの世界の対立」か「輪廻」か

 

ここでは、松本教授の分類を少し変えて、

転生が存在するという考え方を次のように分類してみたい

(転生が存在しないという考え方はここでは除外した)。

 

(1)この世とあの世(霊界)の二つが存在する

1a この世で死んだらあの世へ行く

1b あの世からこの世へ生まれ、死んであの世に帰る

1c あの世とこの世の往復を繰り返す

(2)さまざまな世界に輪廻転生する

 

つまり、「この世とあの世」の間で移動が起こるのか、

それとも、いろいろな世界に何度も何度も生まれ変わり続けるのか、

という違いによってまず大きく分類している。

この世とあの世の2分類的な考え方では、

行ったきりなのか、往復するのか、

といった流れによってさらに細分化してみた。

転生が存在するという死生観においては、

必ずこれらのどこかのパターンに当てはまると思う

(ときにそれが混乱した死生観も見られるが)。

 

これらのパターンを

図1(この世とあの世の死生観)・

図2(輪廻転生観)に示しておいた。

これは細々と説明するよりも、

図で見ていただいたほうがわかりやすいと思う。

 

ここで図2のほうで「輪廻転生」という用語を

使ったことについて簡単に説明しておく。

第1分冊以降ここまでの文章で、

わたしは「輪廻」という用語を使うことを慎重に避けてきた。

一般的には「転生」と言おうが「輪廻転生」と言おうが

あまり違いはないと思われるのだが、

厳密に言うならば微妙なニュアンスの違いがあるからだ。

広辞苑から引用すると、

 

てんしょう 【転生】(てんせい)生れ変ること。

 

りんね 【輪廻】1 [仏](梵語 samsara 流れる意)車輪が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転。2 同じことを繰り返すこと。どうどうめぐり。(以下略)

 

というように、転生は単に「生まれ変わる」こと、

輪廻(輪廻転生)は死んでは生まれ、

生まれては死ぬというように

「ぐるぐると転生し続けること」

なのである。

以後、長々と書くのは面倒なので、

(1)のタイプを「霊界転生」型、

(2)のタイプを「輪廻転生」型と呼ぶことにしたい。

 

「霊界転生」型死生観

 

この世とあの世を行き来する「霊界転生」型の死生観は、

世界の神話・宗教・神秘学において

非常にポピュラーなものだと思われる。

 

たとえば、キリスト教イスラム教では、

人は死んで天国(パラダイス)や地獄(インフェルノ)に行くという。

あるいは、死者は「最後の審判」の日に裁きを受けて、

天国に行けるか地獄に落とされるかが決まるともいう。

これは「一方通行」型とも名付けられるであろう。

ここでは、人の魂がどこから生まれてくるか

ということについての説明はない。

ギリシア神話や日本神話などでは、

死者は黄泉の国に行ってしまい、

そこから帰ってこないという。

これも一方通行型といえる。

また、仏教の中でも浄土教のように

極楽往生

などを主張するタイプはここに含めてよかろう。

これを一歩進めると、

人はもともとあの世から来たのであり、

死んであの世に帰るのだ、

という考え方になるだろう。

つまり、「あの世からこの世に来て、またあの世に帰る」

という「一往復」型の霊界転生である。

実はイエス・キリストの言葉にもこのタイプと

解釈可能なものがあることは意外と知られていない。

 

「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。

わたしは自分勝手に来たのではなく、

神がわたしをお遣わしになったのである」

 

(ヨハネによる福音書 8.8)

 

 つまり、イエスは「神のもと」からやってきて、

また死後には父である「神のもと」に帰る。

これは一往復しているといえるのではないだろうか。

 

 この一往復型の霊界転生死生観では、

この世界よりもあの世、

霊界のほうが「魂の本拠地」

とでもいえるような見方となっている。

しかし、霊界が本拠地だとしても、

たった一回だけ「この世」に来て終わりなのだろうか。

何度もこの世に転生しているのではないだろうか。

そう考えるものを「繰り返し」型の霊界転生と呼んでみたい。

これは神秘学や新宗教などでよく見られる死生観であり、

「わたしたちはもともと霊界の住人であるが、

魂の研鑽を積むためにこの世に生まれて修練をしている」

というような考え方がついてくることが多いのが特徴といえる。

 

「輪廻転生」型死生観

 

霊界転生は「この世」と「あの世」という二項対立であったが、

輪廻転生型の死生観はそれとは趣を異にする。

なぜなら、数多くの世界があり、

どれが「これ」でどれが「あれ」なのかという区別は

もはや意味を持たなくなってしまうからだ。

 

バラモン教ヒンドゥー教から仏教などに引き継がれた

インド的な死生観においては、

人は死んで、新たに別の生命として生まれ変わる。

そして、また死ねばさらに別の生命として生まれ変わる。

魂はこの「輪廻」を延々と繰り返しているというのだ。

 

わたしが見る限り、

霊界転生型の死生観は、

この輪廻転生型の一部を取り出して述べているのではないか、

という気がしなくもない。

つまり、輪廻転生の中でたまたま人間として生まれた生のみを

「この世」への誕生と呼び、

それ以外をみんなひっくるめて「あの世」と呼ぶならば、

この2つの死生観はかなり似たものとなる

(もちろん、精密さにおいては違いがあるが)。

あるいは、輪廻転生型の死生観では、

死後、新たに生まれ変わるまでの間に

「バルド」と呼ばれる段階を通過するが、

これが「霊界」と見えないこともないだろう。

つまり、霊界転生は輪廻転生の一部を取り出して述べたものなのかもしれない。

この資料集において、

輪廻転生型の死生観の解明に力を注いだのはこのためである。

では、次の節においては、

世界の神話・伝説・神秘主義における死生観の物語を概観してみよう。

 

9 死後の世界の物語

 

私は、死後の世界について明白な形でのべたことはない......

今になっても、私はお話を物語る

――神話として話す――

以上のことはできない。

この点について自由に語るためには、

多分、死に近づいていることが必要であろう。

 

私は心の不思議な神話に注意深く耳を傾けることにした。

そして、それが私の理論仮説に適合しようがしまいが、

そこに生じる、いろいろな事象を注意深く観察しようとした。

 

われわれが知ることのできないことがあるならば、

われわれはそれを知的な問題としては捨て去らねばならない。

たとえば、私は宇宙が存在するに到った理由を知らないし、

決して知ることもないだろう。

従って、このような問題は、

科学的、知的な問題からははずさねばならない。

しかし、それについての考え方が

――夢や神話的な伝統において――

私に示されるならば、

それに注目しなければならない。

そのようなヒントを基礎として、

ひとつの概念をつくりあげることさえしなければならない。

 

(ヤッフェ編「ユング自伝』みすず書房)

 

『死んだ人間はどうなるのか――死後の存在と転生の科学的研究』

では、死後の世界の存在、

輪廻転生の実在をさまざまな角度から検証し、

現代の科学者によってもそれらの存在が

次第に証明されつつあることを紹介した。

しかし、死後の世界そのものを詳述するまでには至らなかった。

それは、まだ科学的な証明が及んでいない領域だからだ。

また、それが存在したとしても、

その仕組みやメカニズムについては、

現時点で検証することは難しいだろう。

そこで、この第2分冊では、

世界各地の「伝承」としての死後の世界観を概観してみることにした。

それは「言い伝え」にすぎないかもしれないが、

このような検証の難しい問題については、

大いに参考になると思われる。

たとえば、あなたはアメリカに行ったことがないとしよう。

あなたは自分の目でアメリカを見たわけではないから、

あるかないかわからない。

しかし、アメリカに行った人が何人もいるとする。

あちこちにいる無関係な人たちが、

全く事前に示し合わせることもなく、

そろって「アメリカという国はあるんだ」と言ったとしたら、

その人たちがウソをついていない限り、

アメリカという国はあるのだな、

とあなたは考えるのではないだろうか。

 

つまり、多くの人が独自に見たものは信憑性が高まるということだ。

もちろん、だからといって完全に

「存在する」

とは断言できないことは注意しなければならないだろうが。。。 

死後の世界の仕組みについても同様である。

古今東西、時期と場所を違えても

同様の死後の世界観が語られているならば、

それは彼らが幻覚を見たとかウソをついていると考えるよりも、

「同じものを見た」

と考えるほうが自然ではないだろうか。

ただ、厳密にいえば、

世界各地に伝わる「死後の世界」の姿は、

少しずつ異なっている。

それは矛盾だと考える人もいるかもしれない。

しかし、全く同じではなくても、

それが矛盾するとは限らないことに注意したい。

先ほどのアメリカのたとえを使ってみよう。

ある人(Aさん)はニューヨークしか見ておらず、

別の一人(Bさん)は西部の大平原しか見なかった。

そして、さらに別の一人(Cさん)はアメリカを横断していたとしよう。

AさんとBさんが話をすれば、

それはまるで違うことを主張しているように思われる。

Aさんは「アメリカとは都会だ」と断言するが、

Bさんは「そうではない。未開の地だ」と主張するだろう。

Cさんは「アメリカには都会であるところも、田舎もある。

そのどちらもがアメリカなのだ」と語る。

この三人の話はかみ合わないが、

だれもウソをついているのではない。

もし、Cさんが見たものの中にAさん・Bさんの見たものが含まれる、

という関係がわかれば、

これは矛盾ではないということになるだろう。

死後の世界観においても、

あるものは狭いごく一部分しか語っておらず、

別のものはそれを含む広い形で語っている、

ということがあるだろう。

それは、死後の世界観を比較対照することで見えてくると思われる。

冒頭に『ユング自伝』の「死後の生命」という章からの抜粋を挙げたが、

この大心理学者と同様、

私もまた死後の世界の描写については

物語としてしか語ることができない。

だが、その物語には深い意味があろうと信じる。

その検証資料をまとめたのがこの冊子である。

第1分冊とは少々アプローチ法が違っているが、

皆さんが死後の世界について考えるための資料として

活用していただければ幸いである。

 

なお、本文中において、

引用もと文献によってカタカナ表記の違う固有名詞がいくつかあるが、

引用の場合は原文を尊重したことをお断りしておきたい

 

さあ、今こそ「死」について考えよう

 

『あなたは、なぜ、死にたくないのですか?』

『あなたは、なぜ、生きたいのですか?』

 

 

これらの問いに対して、答えられますか?

 

 

ある宗教には

人間が死んだ後

極楽浄土に行くと言われています

 

 

もし死んだ後

そのような幸せな世界に行けるのだとしたら

こんな思い通りにならない世界から抜け出して

幸せな極楽浄土に行けばいいのではないでしょうか?

 

 

そうですよね?

 

 

しかし人間は誰しも、

死ぬことを恐れます。

 

死にたくない

 

と考えてしまいます。

 

 

それはなぜでしょうか?

 

 

もし死んだ後

今よりもよい生活

極楽な生活を送ることができるのなら

死んだ方がいいのではないでしょうか

 

もし死んだ後

今よりもよい生活

極楽な生活を送ることができるかどうか

わからない

から、不安であり

死にたくない

のではないでしょうか

 

 

気づきましたよね?

 

 

わたしたち人間は、死んだ後どうなるかわからないから

生きたいと考えますし、死にたくないと考えるのです

 

 

では、人間が死んだら、どうなるのか?

自分が死んだ後、どうなるのか?

 

そこを考えることは、私たち自身にとって

多大な利益を与えてくれるはずです

 

 

つまり、「」というものを

真正面から見つめること

立ち向かうことが

何よりも必要不可欠なのです

 

 

さあ、今こそ「」について考えてみましょう!

 
 

8 転生の実在を確信する科学者たち

●科学者は転生の実在を確信する

 これらの研究の末、

「転生」は存在すると考える科学者たちが増えてきている。

転生問題の最後に、

これらの研究者たちの発言を列挙してみよう。

 

○イアン・スティーブンソン博士

 ヴァージニア大学医学部精神科主任教授の

イアン・スティーブンソン博士は、

前生の記憶を持つ人々などについて

数千例ものデータをもとに調査・研究を行なった末、

次のように結論を下している。

「私たちがこれまで入手している生れ変わりの証拠からすると、

生きている人間には

––おそらくは人間以外の動物にも––

心(ないし、そう呼びたければ魂)というものがあり、

この世ではそのおかげで活動でき、

死後にも生存を続ける事ができるということのようである」

 

(イアン・スティーブンソン 『前世を記憶する子供たち』日本教文社

 

 また、スティーブンソン博士は、

今生では知ることができないはずの外国語を話す子供たちの存在に注目し、

その中でも信憑性のある事例については、

人間が死後も生存を続けることを裏付ける

最有力の証拠の一つになると語っている。 

 

○アレクサンダー・キャノン博士

 ヨーロッパの九つの大学で学位を持つ

アレクサンダー・キャノン博士は、

有名な精神分析学者フロイトの業績よりも

「輪廻の考え方の方がはるかに進んでいる」

と主張し、

コンプレックスや恐れの起源などを、

前生の精神的外傷体験にまでさかのぼって調査している。

博士は、著書『内なる力』で次のように記している。

 

「何年ものあいだ、

輪廻説は私にとって悪夢であり、

それに反駁しようとできるかぎりのことをした。

トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、

被験者たちと議論さえした。

あれから年月を経たが、

どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、

つぎからつぎへと私に同じような話をするのである。

現在までに一千件をはるかにこえる事例を調査してきて、

私は輪廻の存在を認めざるをえなかった」

 

(J・L・ホイットン他『輪廻転生』人文書院)

 

○スタニスラフ・グロフ博士

 国際トランスパーソナル学会初代会長であった

グロフ博士は、

薬物投与によって被験者を

非日常的意識状態(トランス状態)に導き、

過去世の記憶を思い出させることに成功しており、

その内容を踏まえて次のように語っている。

「輪廻転生については観察可能な事実がある。

たとえば、われわれは非日常的意識状態で、

鮮明な過去生の体験が自然に起こることを知っている。

......(中略)......

こうした体験は、

客観的に確かめることのできる、

われわれ自身の以前の時期についての

正確な情報を含んでいることが多い。

多くの情緒障害は、

現在の人生よりも、

むしろ過去生の体験にその根を持っており、

それらの障害に起因する症状は、

その根底にある過去生の体験を再体験すると、

消滅するか軽減されるのである」

 

(スタニスラフ・グロフ『深層からの回帰』青土社)

 

○ジョエル・L・ホイットン博士

 カナダ・トロント大学医学精神科主任教授の

ジョエル・L・ホイットン博士は、

「前世療法」と呼ばれる心理療法を行なうかたわら、

輪廻転生についての研究を行なっている。

博士は、著書の序文にこう記している。 

 

「輪廻転生が真実だという証拠については、

そのほとんどが(物的証拠ではなく)状況証拠ではありますが、

きわめて有力なものがそろってる現在、

理屈のうえで輪廻を認めるのに、

特に問題はないと思われます。

......(中略)......

 どうか皆さんもお読みになって、

私と同じ結論に到達されるようにと願っています

–––すなわち、私たちはかつて前世を生きたことがあり、

たぶん来世をもまた生きるだろう、

そして今生の人生は、

連綿と途切れることなくつづく鎖のほんの一部でしかない、と」

 

(J・L・ホイットン他『輪廻転生』人文書院)

 

○ロバート・アメルダー博士

 ジョージア大学主任教授のロバート・アメルダー博士は、

人間の死後生存や輪廻転生について研究を続けた結果、

次のように述べている。 

「われわれは現在、

人類史上初めて、

人間の死後生存信仰の事実性を裏づける

きわめて有力な経験的証拠を手にしている。

このことが哲学や倫理学における

今後の考察に対して持つ意味は、

きわめて大きいと言うほかない」 

「人間が死後にも生存を続けるという考え方は、

だれにでも認められる証拠によって

事実であることを証明できるばかりか、

だれにでも再現できる証拠によって

事実であることがすでに証明されているのである」

 

(ロバート・アメルダー『死後の生命』TBSブリタニカ)

 

7 転生が実在すると考えるほうが合理的である

転生があると考えないと説明のできない行動がある

イアン・スティーブンソン博士によると、

現行の心理学や精神医学の知識では説明しにくい

さまざまな異常行動などについて、

転生が実在していると考えたならば説明が可能となるという。 

これらの「転生があると考えたほうが説明のつく事例」を

一つずつ見ていくことにしよう。

 

1 乳幼児期における特定の事物に対する(先天的な)恐怖症 

こういった恐怖症は、通例、

前世の人格の死因に関係していると考えられる。

四歳のころから、

「前世の自分は日本兵であり、連合軍の飛行機の機銃掃射によって死亡した」

と語り始めたビルマの少女マ・ティン・アウン・ミヨは、

その後数年間にわたって飛行機恐怖症だった。

 

2 幼児期に見られる変わった興味と遊び

子供の多くは、

成人した後に就くことになる仕事に幼少期から興味を抱くものである。

聖人として知られるシエーナの聖カタリーナは幼少期に、

出家ごっこをして遊んだり、

食を断つなどの苦行を行なったりしていた。

七歳のときには、自らの生涯をイエス・キリストに捧げた。

父親はシエーナで染色業を営んでおり、

母親ともども信心深く、

娘が宗教的献身の生活に入ることに反対はしなかったが、

一家の暮らしぶりを見ても、

本人が聖女となったことを説明してくれる要因は見当たらない。

 

3 幼児期に見られる異例の能力や誰にも教わることなく示す技能 

アラスカに住む老漁師だった記憶をとどめる

コーリス・チョトキン・ジュニアは、

さいころから発動機に関心を示し、

発動機を操作、修理する技術まで持っていた。

 

4 嗜好品をほしがる

前世を記憶する子供の中には、

酒類やタバコ、大麻誘導体などの麻酔薬を欲しがって

(あるいは要求すらして) 大人たちを仰天させたものもある。

こうした子供たちの話では、

前世でこの種の嗜好品によって慰めを得たのを覚えており、

また飲み始めてはいけない理由がわからないというのである。

 

5 気質の違い

生後数日目の乳幼児ですら、

気質に著しい差が観察される。

気質になぜ個人差が生じるのかわからないとして、

困惑の色を隠さない専門家もある。

博士が調査を行なった数例では、

前世を記憶する子供について、

その子供の現世の気質と前世の人格との間に

共通した気質が見られることを情報提供者が強調している。

 

6 早熟な性的衝動

前世を記憶する子供たちの中には、

早くも幼少期に、

前世の人格の妻や愛人や恋人に対して

明白な性的関心を示す者がある、

また、やはり幼少期に、

前世の連れ合いに似た異性に言い寄った子供もある。

 

7 性的同一性の混乱

現在とは逆の性別の人間として送った前世を記憶しているという子供は、

たいていの場合、前世の性別に沿った行動特徴を幼児期に示す。

このような子供たちは、

現在の解剖学的性別を拒否するか、

拒絶しているかのようにふるまうことがある。

例えば、自分は男の子だと主張し、

男児の服を着たり、

男の子の遊びに興じたり、

名前を男の子のように呼ばれたいと

主張する少女がいるのである。

前出の、日本兵だったと主張するミヨは、

顔つきも男性的であり、

また男性のように振る舞うことを好み、

女性的な格好を嫌ったため、

ついには学校を中退せざるをえなくなったほどである。

同性愛的傾向を持つ人の中には、

前世と現在の性別が逆転している人が多いのかもしれない。

 

8 一卵性双生児にも大きな違いが見られる 

マウン・アウン・チョ・テインと

マウン・アウン・コ・ティンという

ビルマの双生児(男児)は、

精米所を営んでいた女性と、

その精米所に自分の田圃で収穫をした米を収めていた

米作農民の生涯を記憶していた。

この双生児の相互の行動や態度を見ると、

裕福な精米所経営者の少々横柄な態度と、

米作農民の慇懃な態度とがそのまま反映されていた。

 

9 一見理不尽な攻撃性

他人に対して、あるいは集団全体に対して

一部の人間が示す一見不合理な敵意は、

例えば前世で殺害された者が犯人に対して抱きそうな、

復讐心に満ちた態度を前世から現世に

そのまま持ち越しているものと思われる。

連合軍に殺されたという「元日本兵」のミヨは、

自分の面前でイギリス人やアメリカ人の話が出ると怒り出した。

 

10 妊娠中に見られる異常な食欲

マウン・ミント・ティンは、

アルコール依存症だった前世を記憶しており、

本人自身も小さいころ酒類をしきりに欲しがった。

彼女の母親は、

彼女を妊娠して四、五ヶ月の間、

酒を飲みたいという欲求が抗しがたいほど強かったと報告している。

 

11 左利き

祖母の生まれ変わりとされる

マ・キン・サンディというビルマ女性は左利きだったが、

祖母はそうではなかった。

また、家族内には他に左利きの者はいなかった。

ところが、祖母は脳卒中を起こし、

死亡するまでの数ヶ月間は

右手に麻痺を残していたのである。

そのため、 右腕が役立たずになった

という行動的記憶が残存しており、

それによりマ・キン・サンディは

左手を好んで使うようになったと思われる。

 

12 母斑や先天的欠損 

前世の記憶を持つとされる子供の中には、

情報提供者の証言をはじめとする証拠によると、

前世の人格の肉体についていた傷(その他の目印)と

符合する母斑や先天的欠損を持って生まれてくる者が多い。

一部には、本人の持っている疾患が、

前世の人格が持っていたものと一致する場合もある。

日本兵だったというミヨは、

死因となった連合軍の機銃掃射による傷あとと

同じ足の付け根にあざがあり、痛みがあった。

 

13 個々の人間の独自性

仮に、生まれ変わりという現象が起こることを

伺わせる証拠が全くなかったとしたら、

人間が生まれながらにして持っている能力は

遺伝子が偶然に混ぜ合わされた結果だとする

考え方に満足しなければならないことになろう。

ところが、ある程度の証拠が存在するため、

個々の人間がそれぞれ独自の特徴を備えているのは、

遺伝要素ばかりでなく、

(少なくとも一部は)前世の人格が経験した事柄によるのではないか、

という可能性が出てくるのである。 

ラリタ・アベヤワルデナは、

幼少期に先生ごっこをして遊び、

宗教的礼拝に異常な関心を示した。

その前世だとされるニランティーという女性は、

学校の教師だったばかりか、

信心深いことで有名な女性だったのである。

 

14 既視感(デジャ・ヴュ) 

一部の生まれ変わり型事例では、

自分が前世を送ったという村に初めて行った時に

既視感(初めての場所なのに、

前に来たことがあるような気がするという体験)が見られる。

既視感を経験しながら前世のイメージ記憶を持たない一般の人は、

いわば前世の先端だけ覚えていて、

それ以上の記憶を意識化できないということなのかもしれない。

 

● 生まれたときの違いは前世からの持ち越しか

これらの項目のうち、

5(気質の違い)、

8(一卵性双生児にも大きな違いが見られる)、

13(個々の人間の独自性)については、

「生まれたときに独自の個性を持って生まれている」

というふうにまとめることができよう。

人間は、生まれた時点ですでに身体的・性格的に

いろいろな違いや個性を持って生まれている。

これは、何らかの形で前世の影響を受けていると

考えると非常に理解しやすい。 

ここでたとえ話をしよう。

学力が同程度の二人の高校生がいたとする。

一人は、受験勉強に熱心に取り組んだために大学に合格した。

しかし、もう一人は、受験勉強をやらず遊びに夢中になったがために、

合格することができなかった。

合格発表時点を基準とした場合、

この二人になぜ合否という差異が生じたのかというと、

受験以前の二人の努力の相違が結果となって

現われたということができるだろう。

この構図を誕生時に当てはめてみよう。

生前に何がしかの原因や条件があるからこそ、

生まれた時点で違いが生じると考えられないだろうか。

つまり、生まれた時点で気質や独自性が見られ、

それが「前世」の人格との連続性を示しているような

事例があるということは、「生前」、

つまり前世が存在する可能性が

高いことを示しているとは言えないだろうか。

一般には、

「遺伝子に組み込まれている情報の違いが表に現われているにすぎない」

という説明をされるだろう。

しかし、8で示したように、

一卵性の双生児が同じ環境に育ったというのに、

性格に著しい違いが見られるという実例がある。

これは、遺伝子の影響以上に、

前世の影響を受けている可能性が高いと

考えた方が自然ではないだろうか。 

確かに非常に物覚えがよかったり、

あるいは早熟した才能に恵まれているために

「神童」などと呼ばれる天才児が時たま出現することがある。

これは、スティーブンソン博士らによる

以上のような研究成果をふまえるならば、

彼らは単に前世における記憶や才能を

そのまま引き継いでこの世に生まれてきたのだと

考えることができる。

 

●前世がないという反論はうまく説明ができない

これらの前世記憶について、

さまざまな反論があるだろう。

これについても、どうやら

「前世が存在する」

というほうに分があるようである。

まず考えられるのは、

「前世を覚えている子供」とその家族、

そして前世に関係があったとされる家族などが

ウソをついているのではないか、

ということだ。

つまり、最初に全部打ち合わせておいて、

狂言芝居をしているのではないか、

という考え方である。

しかし、調査された事例のほとんどが、

前世の記憶を持っている子供として

知られることが迷惑だったということだった。

インドの場合には、

前世が今と違ったカーストであるため、

家族が子供に話さないよう強要していたという例すらある。

転生が当然とされているインドでもこうだから、

キリスト教圏でそのような発言をすれば、

社会的に迫害されかねない。

さらに、スティーブンソン博士らはどの事例でも

数多くの証人から証言を集めている。

その証言に矛盾がなく、

ウソをつく動機も機会もなかったと詳細に調べている。 

このため、「ウソつき」説は成り立たないと考えていいだろう。 

次に考えられるのは、「潜在記憶」説である。 

前世の関係者に会ったことがあって、

それが潜在的に記憶として残っていたとか、

報道で読んだことがある、

というような考え方だ。

あるいは、家族同士が知り合いであり、

前世の「自分」に当たる人の死の状況の話を聞いていた子供が、

前世物語を知らず知らずのうちに作り上げてしまう、

という説である。

しかし、スティーブンソン博士の研究では、

家族間の交流があったというような例はほとんどなかった。

むしろ、「前世を記憶している子供」の検証調査によって

初めて接点が生まれたという例が大半なのである。 

そのほかにも、潜在記憶説への反論は可能だ。

 

・スティーブンソン博士が研究した地域は

メディアの発達が遅れているので情報を手に入れにくい。 

 

・前世を記憶している子供の多くが三歳以下で発言を始めている。

大人の会話やメディアの情報を断片的に聞いて

前世物語を始めるとは考えにくい。 

 

・前世の人物本人や家族以外には知られていない

秘密の事実について知っているケースもある。

 

・好みやくせ、恐怖症などの行動の一致は、

言葉を通じて得られた知識で再現できるものではない。