死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

16 バルド・トゥドゥルを検証する

臨死体験とバルド・トゥドゥルには共通性がある

 

私の死後の世界の研究において

『バルド・トゥドゥル』を重要視したのは、

それが世界各地の

神話・伝説、あるいは哲学・宗教における

死生観を包括しているように思われたからである。

死後、

冥府へ赴き、

そして神の裁きを受け、

すばらしい世界または地獄へと至る

......このような、

一見輪廻転生とは違う死生観も、

冥府をバルドと置き換え、

神の裁きを閻魔の裁きとし、

その後の天国や地獄を次の転生先と考えるならば、

矛盾はなくなってくるのではないか。

つまり、一度きりの死から生へのプロセスを説いているのか、

それとも数多くの転変の様子を描いているのか、

という違いにすぎず、

これらはすべて共通して同じ

死後の世界を違った言葉で表現しているにすぎない、

ということになろう。

とすれば、古今東西、あらゆる人

(人だけではないかもしれないが)の死後は、

同じようなことを体験する、

と説かれているといってもいいのかもしれない。

そして、神話や宗教に描かれている死後の世界については、

第一分冊でも検討したように、

現代版の「体験」がある。

臨死体験である。

この臨死体験と『バルド・トゥドゥル』の内容は、

多くの点で共通項が多い。

ソギャル・リ ンポチェ著の『チベット生と死の書』によると、

バルドでの体験と臨死体験では、

つぎのような点で共通性が見られるという。

 

◎闇とトンネル

死のバルドの溶解のプロセスの最終段階では

〈顕現近得〉と呼ばれる真っ黒な顕れが

「真っ 暗な闇に覆われたなにもない空」にたちのぼる。

ここに至福と歓喜の瞬間があると教えは説く。

臨死体験の主な特徴のひとつに、

暗い虚空を、

「完全に安らぎに満ちた、驚くほど暗い闇」のなかを、

「長くて暗いトンネル」のなかを、

「猛烈なスピード」で

「重さを全く感じることなく」

移動していくような印象がある。

 

◎光

死の瞬間には、

根源の光明が赫々たる姿でたちのぼる。

チベット死者の書』にはこう記されている。

「悟りし者の家系の息子よ/娘よ(善男善女)、

......汝の明知は澄明にして空であり、

不可分であり、

光の広大な界に住している。

そこには生も死もなく、

不変の光の仏(阿弥陀仏)そのものである」

子供たちの臨死体験を専門に調査した

メルヴィン・モースはこのように述べている。

「子供たちの臨死体験者のほとんどに

(そして大人の臨死体験者の約四分の一にも)、

光の要素がある。

子供たちはみな、

体外離脱体験やトンネルを抜けた後に

くる臨死体験の最終段階で、

光が現れたと報告している」

(『Closer to the Light』)

 

◎体外離脱

ほとんどの場合、

臨死体験は体外離脱とともに始まる。

人々は自分の肉体を、

その周囲を見ることができる。

これは『チベット死者の書』の記述と一致する。

 

◎なすすべもなく親族を見守る

再生のバルドにある死者は、

親族を見たり、

話を聞くことができるにもかかわらず、

意志の疎通ができないため、

時にひどい欲求不満に陥ることは前に述べた。

フロリダの女性は天井近くから

母親を見下ろしていた時の体験を

マイクル・B・セイボムに語っている。

「一番悲しかったのは、

自分が無事なことをどうしても

母に知らせることができなかったこと。

自分が無事なことは何故かわかっていましたが、

それを母に伝えるすべだけはわからなかったのです......」

(『あの世』からの帰還)

 

◎完全なる肉体、どこにでも移動できる力、透視眼

チベット死者の書』は再生のバルドの意成身について

「黄金時代の肉体のよう」であり、

超自然的な可動性と透視眼を有していると述べている。

臨死体験においても、

人々は壮年期の完璧な肉体を有している。

また、この時、

思考の力で瞬時に移動できることも知られている。

多くの臨死体験者は

「初めの時より終わりの時に至るまで」

のすべてを知り尽くしているような

透視眼的感覚を報告している。

 

◎他者と出会う

チベット仏教の教えによると、

再生のバルドの意成身は、

バルドの中で他の存在に出会うという。

同様に臨死体験者も、

自分より先に死んだ者としばしば会話を交わす。

 

◎異なる世界

再生のバルドの意成身は、

多様なヴィジョンを、

特にさまざまな世界のヴィジョンやしるしを目にする。

臨死体験から甦った人々の数パーセントは、

妙なる音楽が奏でられる内なる世界、

天国、光の輝きにみちた街といったヴィジョンを目にしている。

 

◎地獄のヴィジョン

チベット仏教の教えからも想像できるように、

臨死体験の記述のすべてが肯定的なものとは限らない。

再生のバルドの記述を思い起こさせる恐怖やパニック、

孤独、わびしさ、悲哀といった恐るべき体験を報告する者もいる。

ある者は嵐のような巨大な黒い渦巻きに

吸いこまれるような体験をした

とマーゴット・グレイに語っている。

こうした否定的な体験をする者は、

再生のバルドで低い世界に転生しかかっている者と同じく、

上方ではなく下方に旅をしているような感覚を味わう。

地獄のヴィジョンとしか呼べないような体験を

―耐えがたい暑さや極寒を味わったり、

野獣の叫びや拷問される者の悲鳴を耳にした者もいる。

 

ちなみに、チベットにも死後の世界を体験し、

そして生き返った者たちが歴史上多数記録されており、

それはデーロク(死から甦った者)を意味する。

 

チベット仏教は輪廻を否定する?

 

週刊文春」二○○○年二月三日号に、

時評家・宮崎哲弥氏のコラム

「異見ありチベット「活仏」に宗教的意味はない?」

が掲載された。

 

テレビや新聞はこぞって、

「活仏」がまるで宗教的に重要な意味のある

慣習であるかのように報じた。

輪廻転生がチベット仏教全体の根本的な教義である

との印象を受けた人も少なくないだろう。

一昔前の『チベット死者の書』ブームのときにも

同様の有様だったが、

チベットの仏教や歴史を多少なりとも

知るものにとっては苦々しい限りだ。

.....ダライ・ラマの所属宗派であり、

チベット仏教中最大にして正統なる宗派であるゲルク派は、

根本教理において輪廻転生の実在を認めていない。

ゲルク派の宗祖は高名なツォンカパだが、

彼が仏教最高の見解として奉じたのは、

インドの仏教学者、

チャンドラキールティ(月称)の立てた

中観帰謬論証派の思想である。

注目すべきことに、

ツォンカパが高く評価する

チャンドラキールティの代表作

『中論註(プラサンナパダー)』では、

「輪廻は決して存在しない」ことが

厳密に論証されているのである。

またツォンカパ自身の著作でも

「無尽意経」という経典を引きながら、

霊魂や恒久の自我やらの実在を説く教えを

「未了義」であると明確に規定している。

「未了義」とは不充分な見解、

まだ導く余地を残す仮の教えであり、

要するに方便のことである。

これに対し「了義」 の教え、

すなわち完成した最高の真理とは無霊魂、

無我であるとされる。

無霊魂説、

無我説が究極の真理であるのならば、

「輪廻転生が存在しない」のは理の当然である。

生きているときにも、

変化せざる「我」はなく(無我)、

かつ「我」の本体も存在しない(無霊魂)のに、

どうして死後の永続する「我」が想定できようか。

チャンドラキールティやツォンカパは

仏教の論理の骨法に則ってそう考えたのである。

ところが、ツォンカパの死後ゲルク派に導入された

「転生活仏」制は明らかに宗祖の教えに反するものだった。......

 

専門用語が並ぶが、

要約するならば宮崎氏は、

チベット仏教の最大宗派であるゲルク派では、

「根本教理において輪廻転生の実在を認めていない」と

断定しているのである。

この見解について、

ダライラマの仏教哲学講義」(大東出版社刊)

の訳者でもある福田洋一氏は、

インターネット上でこのような見解を発表している。

 

チャンドラキールティやツォンカパは中論に基づき、

輪廻を否定している、

というわけですが、

もちろんこんなことはありません。

誤解を恐れず、

簡単に言えば、

中観思想が否定しているのは、

実体的な存在ですので、

輪廻であれ、

涅槃であれ、

それどころか空性思想でさえも、

みな等しく実体的には存在しないということを

言っているにすぎないわけで、

ツォンカパが輪廻が存在しない、

などと言っていないどころか、

事実はその真逆、

つまり、輪廻も涅槃も凡夫も仏陀も、

すべて存在する(ただし実体的に、ではなく)ということを、

繰り返し主張しているのです。

これこそが中観思想が他のいかなる思想とも異なる、

独自な主張の肝心要の点だ

(これを書斎仏教学的には「中観派の不共の勝法」と言います)と、

これも繰り返し繰り返し説いているのです。

.....

チベット仏教では、

まず、輪廻を認めないことには、

最初の一歩を踏み出すこともできません。

仏教に入るには、

最初に輪廻を確かに承認しなければなりません。

これを認めない、

などとチベット人僧侶に言ったら、

かれらは悲しい顔をして、

この人は今生では仏教に無縁の人なのだと思うことでしょう。

ツォンカパがラムリム(覚りへと至る道の階梯)の

根本要因として三つの項目を挙げた詩を作っています。

......ここには、チベット仏教を支える根本的動機が、

極めて簡潔に、

かつ感動的に

(拙訳がそれを再現しているわけではないのですが。)

凝縮されています。

三つの要因とは、

この輪廻から解脱したいという出離の心を持つこと、

次に一切衆生を解脱させるために

自ら仏道修行を成し遂げようという菩提心を起こすこと、

そして、縁起と空が相即の関係にあることに

対する正しい理解を得ること、です。

この最後に出てくる縁起とは、

輪廻から涅槃に至るまでの一切のものが

成り立つことであり、

それは空であること

(すなわち実体的には存在しないこと)

が必要条件になるのです。

この三つの要因はすべて、

輪廻の存在、

そしてわれわれ一切の命あるものが、

輪廻をしていることを前提としていることは

言うまでもないことです。

.....

仏教にとって輪廻は価値論の文脈で

取り上げられたものではなく、

まさしく存在しているものの一つであり、

存在論に属するわけです。

しかも、それが単なる存在論ではなく、

直接、仏道修行の前提になっているという意味で、

価値論的なものでもあるのです。

「@BODDO 特集宮崎哲弥「異見あり」に異見あり!」より

 

中観思想についてここでは深く追究しないことにするが、

宮崎氏によれば輪廻を否定して いるという

中観思想の祖ツォンカパ自身が、

輪廻の存在を前提とした教えを説いている、

と いうことは事実のようである。