死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

10 さまざまな死後の世界観

松本滋教授による死後の世界観の3タイプ

宗教史・比較宗教を専門とする聖心女子大学の松本滋教授によると、

古来人間が展開してきた死後の世界観(教授は「死後生」と呼ぶ)には、

大きく分けて3つのタイプがあるという。

 

(1)一度生まれ型――

人間は、この世に生まれ、

この世で生きるだけ。

死んだらそれで終わり。

 

(2)二度生まれ型――

この"世"の先に、あの世、(来世) が存在する。

人間の生はこの世だけでなく、

何らかの形でもう一度、

別の世に生を受けて生きる。

 

(3)繰り返し生まれ型――

人間は(あるいは人間以外のものも)この世で生きるだけでなく、

何度も生まれ変わる。

したがって、"前生"も"来世"も多数存在するという考え方。

 

(1)の「一度生まれ」型というのは、

「死後の世界は存在しない」

という考え方だ。

現代日本ではこの考え方が学校で教えられ、

正しいものとされている。

唯物論的な考え方といえよう。

 

(2)は、この世から死んで、

あの世(霊界、天国、極楽、地獄、冥府など)に至るという考え方。

これは神話や宗教の世界に数多く見られる。

現代人の多くは(1)を建前としているが、

実際には水子供養・先祖霊・地縛霊などが受け入れられており、

(2)の二度生まれ型が広く行き渡っていると思われる。

 

(3)は、死んでは生まれ変わり、

死んでは生まれ変わり、

を繰り返すパターン。

いわゆる「輪廻転生」思想がこれにあたるといえよう。

 

さて、この三つの考え方であるが、

どれも矛盾させずに考えることができる。

つまり、(3)の「繰り返し生まれ」型の世界観は最も広く、

そのうちの一部のみ(つまり、この世と次の生のみ)を認識した場合に

(2)の「二度生まれ」型となり、

そして死後のことを全く考えられなければ、

(1)の「一度生まれ」型ということになるだろう。

 

言い換えれば、死後の転生については、

(2)のような仕組みになっている、

という人は、(3)のようになっている、

という人よりも見聞きした範囲が狭いという

可能性があるということだ。

 

「二つの世界の対立」か「輪廻」か

 

ここでは、松本教授の分類を少し変えて、

転生が存在するという考え方を次のように分類してみたい

(転生が存在しないという考え方はここでは除外した)。

 

(1)この世とあの世(霊界)の二つが存在する

1a この世で死んだらあの世へ行く

1b あの世からこの世へ生まれ、死んであの世に帰る

1c あの世とこの世の往復を繰り返す

(2)さまざまな世界に輪廻転生する

 

つまり、「この世とあの世」の間で移動が起こるのか、

それとも、いろいろな世界に何度も何度も生まれ変わり続けるのか、

という違いによってまず大きく分類している。

この世とあの世の2分類的な考え方では、

行ったきりなのか、往復するのか、

といった流れによってさらに細分化してみた。

転生が存在するという死生観においては、

必ずこれらのどこかのパターンに当てはまると思う

(ときにそれが混乱した死生観も見られるが)。

 

これらのパターンを

図1(この世とあの世の死生観)・

図2(輪廻転生観)に示しておいた。

これは細々と説明するよりも、

図で見ていただいたほうがわかりやすいと思う。

 

ここで図2のほうで「輪廻転生」という用語を

使ったことについて簡単に説明しておく。

第1分冊以降ここまでの文章で、

わたしは「輪廻」という用語を使うことを慎重に避けてきた。

一般的には「転生」と言おうが「輪廻転生」と言おうが

あまり違いはないと思われるのだが、

厳密に言うならば微妙なニュアンスの違いがあるからだ。

広辞苑から引用すると、

 

てんしょう 【転生】(てんせい)生れ変ること。

 

りんね 【輪廻】1 [仏](梵語 samsara 流れる意)車輪が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転。2 同じことを繰り返すこと。どうどうめぐり。(以下略)

 

というように、転生は単に「生まれ変わる」こと、

輪廻(輪廻転生)は死んでは生まれ、

生まれては死ぬというように

「ぐるぐると転生し続けること」

なのである。

以後、長々と書くのは面倒なので、

(1)のタイプを「霊界転生」型、

(2)のタイプを「輪廻転生」型と呼ぶことにしたい。

 

「霊界転生」型死生観

 

この世とあの世を行き来する「霊界転生」型の死生観は、

世界の神話・宗教・神秘学において

非常にポピュラーなものだと思われる。

 

たとえば、キリスト教イスラム教では、

人は死んで天国(パラダイス)や地獄(インフェルノ)に行くという。

あるいは、死者は「最後の審判」の日に裁きを受けて、

天国に行けるか地獄に落とされるかが決まるともいう。

これは「一方通行」型とも名付けられるであろう。

ここでは、人の魂がどこから生まれてくるか

ということについての説明はない。

ギリシア神話や日本神話などでは、

死者は黄泉の国に行ってしまい、

そこから帰ってこないという。

これも一方通行型といえる。

また、仏教の中でも浄土教のように

極楽往生

などを主張するタイプはここに含めてよかろう。

これを一歩進めると、

人はもともとあの世から来たのであり、

死んであの世に帰るのだ、

という考え方になるだろう。

つまり、「あの世からこの世に来て、またあの世に帰る」

という「一往復」型の霊界転生である。

実はイエス・キリストの言葉にもこのタイプと

解釈可能なものがあることは意外と知られていない。

 

「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。

わたしは自分勝手に来たのではなく、

神がわたしをお遣わしになったのである」

 

(ヨハネによる福音書 8.8)

 

 つまり、イエスは「神のもと」からやってきて、

また死後には父である「神のもと」に帰る。

これは一往復しているといえるのではないだろうか。

 

 この一往復型の霊界転生死生観では、

この世界よりもあの世、

霊界のほうが「魂の本拠地」

とでもいえるような見方となっている。

しかし、霊界が本拠地だとしても、

たった一回だけ「この世」に来て終わりなのだろうか。

何度もこの世に転生しているのではないだろうか。

そう考えるものを「繰り返し」型の霊界転生と呼んでみたい。

これは神秘学や新宗教などでよく見られる死生観であり、

「わたしたちはもともと霊界の住人であるが、

魂の研鑽を積むためにこの世に生まれて修練をしている」

というような考え方がついてくることが多いのが特徴といえる。

 

「輪廻転生」型死生観

 

霊界転生は「この世」と「あの世」という二項対立であったが、

輪廻転生型の死生観はそれとは趣を異にする。

なぜなら、数多くの世界があり、

どれが「これ」でどれが「あれ」なのかという区別は

もはや意味を持たなくなってしまうからだ。

 

バラモン教ヒンドゥー教から仏教などに引き継がれた

インド的な死生観においては、

人は死んで、新たに別の生命として生まれ変わる。

そして、また死ねばさらに別の生命として生まれ変わる。

魂はこの「輪廻」を延々と繰り返しているというのだ。

 

わたしが見る限り、

霊界転生型の死生観は、

この輪廻転生型の一部を取り出して述べているのではないか、

という気がしなくもない。

つまり、輪廻転生の中でたまたま人間として生まれた生のみを

「この世」への誕生と呼び、

それ以外をみんなひっくるめて「あの世」と呼ぶならば、

この2つの死生観はかなり似たものとなる

(もちろん、精密さにおいては違いがあるが)。

あるいは、輪廻転生型の死生観では、

死後、新たに生まれ変わるまでの間に

「バルド」と呼ばれる段階を通過するが、

これが「霊界」と見えないこともないだろう。

つまり、霊界転生は輪廻転生の一部を取り出して述べたものなのかもしれない。

この資料集において、

輪廻転生型の死生観の解明に力を注いだのはこのためである。

では、次の節においては、

世界の神話・伝説・神秘主義における死生観の物語を概観してみよう。