死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

15 六道輪廻の構造

苦しみの世界としての六道

 

チベット仏教では、

わたしたちが輪廻転生する世界を五つ、

または六つに規定している。

 

それは下の世界から順に、

 

・地獄

・餓鬼

・畜生(動物)

・人間

・阿修羅

・天

 

となっている。

 

仏教の流派によっては、

「阿修羅」と「天」をひとまとめにして「天」とする場合もある。

また、日本では人間の下に修羅道を置く場合が多いが、

ここでは、チベット仏教の教えに合わせて

六つの世界として見ていくことにしよう。

 

仏教の教えでは、

六道は苦しみの世界であると規定されている。

まず下から三つの世界(地獄・餓鬼・畜生)は、

激しい苦しみの世界となっている。

人間界以上は次第に喜び多き世界になってくるが、

わたしたちがこの「六道」を流転し続ける限り、

いずれは苦しみの世界に落ちて、

気も遠くなるほどの長い間、

責め苦を受け続けなくてはならない。

 

したがって、

「六道」はそれ自体が苦界とされているのである。

「苦しみ多き輪廻の世界」の項のところで述べたように、

六道はあくまで脱却すべき世界なのである。

そのために解脱が求められるのである。

 

では、

それぞれの世界にどのような苦しみが待ち受けているかについて、

見てみることにしよう。

 

地獄の住人は業火に焼かれ

餓鬼は飢えとかわきに滅ぼされ

動物はたがいの捕食に苦しめられ

人間は命の短さによって死にうせ

アシュラは闘争と口論に滅亡し

神々は充足によって死をおそれる

輪廻の生は針の先のようなもの

そこに真の幸福はみいだせない

(『デンパ・ニェルシャク』)

 

地獄

 

地獄は六道の中で、

最も苦しみの多い世界である。

いや、苦しみしかない世界と言っていいだろう。

地獄の世界は、

熱地獄(極端な暑さ・熱さ)

寒冷地獄(極端な冷たさ)

痛覚地獄(極端な痛さ)

の大きく三種類に分けられる。

それがさらに、

苦しみの大きさに応じて何層かに分かれている。

下の方の地獄に行けば行くほど、

苦しみの度合いは大きくなり、

そこにとどまる期間も長くなっている。

だが、これらの苦しみも、

その地獄の住人たちがそれ以前の生においてなした

行ないによって生じているのである。

何度も何度も地獄に生まれ変わり続けた末に、

いずれは別の世界に転生することも可能であるという。

 

地獄には十八の種類があり、

そのうちの八つは熱地獄といわれている。

 

八熱地獄は一番上の「等活地獄」にはじまって、

下に行くにつれ苦しみが増していく。

等活地獄」に生まれてきているのは、

瞑りにまかせて争いをくりかえしていたものたちである。

この地獄の住人たちはここで、

かつて激しく闘った旧敵にまみえ、

ふたたび武器をとって闘いはじめる。

激しい争いのすえ、

みな死にたえてしまうと、

天から「蘇りなさい」という声が聞こえ、

彼らはまた息を吹きかえして闘いはじめる。

この地獄の生は闘いのくりかえしである。

この地獄の苦しみはどれくらいつづくのか。

四天王界の神の一日は人間の五十年に相当し、

これが三百六十五日集まって神の一年となるが、

その神の五百年がこの地獄の一日にあたるという。

等活地獄」の住人は、

そんな日々を五百年も送るのである。

 

第二の熱地獄は「黒縄地獄」と呼ばれる。

閻魔王の獄卒たちが住人たちを束にして、

その身体に四本・八本・十六本・三十二本と線を引き、

その線にそって焼けた鉄ののこぎりで身体を刻んでいくのである。

この地獄の住人はこんなふうに切り刻まれても死ねないで、

苦しみだけが残っていくのである。

ここの住人は「等活地獄」の住人より長生きをする。

三十三天界の神の一日は人間の百年にあたるという。

それが千年集まって「黒縄地獄」の住人の一日に相当する。

この地獄の住人はそんな日々を一千年もすごすのである。

 

第三の熱地獄は「衆合地獄」である。

数え切れないくらいたくさんの生き物が、

焼けただれた鉄の臼に入れられる。

その臼めがけて、

山のように巨大な杵がふりおろされ、

みなを押しつぶしてしまう。

すると杵がもちあがって、

みな生きかえる。

この地獄の住人たちは、

このような恐怖と苦しみを気の遠くなるくらい

長い間味わいつづけるのである。

夜摩天に住む神々の一日は人間の二百年に相当し、

それが二千年も集まって「衆合地獄」の一日をつくる。

この地獄の住人は、

そんな日々を二千年もすごさなければならないのである。

 

第四熱地獄は「号叫地獄」と呼ばれる。

ここでは扉も窓もない焼けた鉄の部屋に押しこまれた

数え切れないほどの住人たちが、

いつも苦しみの号叫をあげている。

兜率天の神の一日は人間の四百年に相当する。

神の四千年が集まって「号叫地獄」の一日となり、

住人はそれを四千年も生きつづけなければいけない。

 

第五熱地獄は「大叫地獄」である。

二つの焼けた鉄の部屋が入れ子状になっている。

内側の部屋に入れられた住人たちが、

かりに外に出られたとしても、

そこにもまた別の焼けた鉄 の部屋を見つけて、

深い失望と前にも増した苦しみを味わうことになる。

楽変化天の一日は人間の八百年にあたり、

その神の八千年が「大叫地獄」の一日に相当する。

地獄の住人たちは、

その苦しみを八千年も味わいつづけねばならないのである。

 

第六熱地獄は「炎熱地獄」だ。

宇宙全体をもおおうかと思われる巨大な鉄の鍋に、

焼けただれた鉄がみたされ、

その中にこの地獄の住人たちがつき落とされる。

苦しさのあまり住人が表面に浮かびあがってくると、

地獄の獄卒が鉄の鉤でおさえつけ、

したたかなぐりつける。

他化自在天の神の一日は、

人間の千六百年にあたる。

その神の一万六千年が「炎熱地獄」の一日に相当し、

そんな日々を「炎熱地獄」の住人は一万六千年も味わいつづける。

 

第七熱地獄は「大熱地獄」である。

地獄の獄卒が手にもった焼けた鉄でできた三叉を

ここの住人に刺しつらぬいて苦しめる。

三叉は、両足のかかとと尻の穴からつきささり、

頭と肩 につきぬけている。

この地獄の苦しみがどのくらいつづくか、

もう数えることができない。

 

最も過酷な八番目の地獄は「無間地獄」と呼ばれている。

灼熱の家に押しこまれた生き物たちに、

たえずふいごにあおらされた火が吹きつけて、

火も身体も見分けができないほどになっている。

この地獄の苦しみを、

第七熱地獄の倍も長い間耐えなければならないという。

この地獄に生まれてくるのは、

父母を殺すなど恐るべき五つの大罪をおかした者と、

密教の修行者で師にそむいた者だけである。

気の遠くなるような長い間

この第八熱地獄の苦しみを味わいつづけたあと、

この地獄から解き放たれたあとも、

地獄の住人は四方にある近隣の地獄

―それぞれ火灰、屍糞の泥、刃の原、剣の森と呼ばれている―

をたどらなければならない。

「無間地獄」をぬけでた地獄の住人は、

はるかかなたに灰色の野原が広がっているのを見て小躍りし、

そこへかけこんでみると、

たちまち熱した灰の中に埋もれてしまう。

火灰の地獄をぬけでた住人は、

遠くにすばらしい湖を見るだろう。

もう長いことのどがからからだった地獄の住人は、

大喜びでかけだ彼の頭にしゃぶりついてくるのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

ここに挙げたのは「熱地獄」や「痛覚地獄」の描写だが、

「寒冷地獄」はこれらの地獄よりも苦しく、

とどまる期間が長いとされている。

 

餓鬼

 

餓鬼界は、

果てしない飢えと渇きに苦しめられる世界である。

人間の世界でも、

アフリカの難民などを見ると、

まさに餓鬼の世界を思わせるような、

悲惨な飢えと渇きの苦しみが蔓延している。

しかし、人間の世界は、

極度の飢え・渇きに陥ると死に至ってしまうが、

餓鬼の世界はその状態でも死ぬことができないという。

「死んだほうがまし」と思える苦しみの中を、

死ぬことができずにひたすら苦しみのた打ち回っているのだ。

餓鬼に生まれたものは、

地獄の住人のつぎにひどい苦しみを味わうことになる。

餓鬼は私たち人の世界とはちがう次元に住むこともあるし、

人間界をうろついていることもある。

餓鬼は飢えと渇きに苦しんでいる。

まず生まれた環境のせいで、

ひどい苦しみをなめている餓鬼たちがいる。

荒れはてた不毛な土地に生まれた彼らは、

食べものや水を探して、

もう何百年もさまよいつづけているけれど、

ひとかけらの食べもの、

一滴の水さえ見つけることができない。

向こうの方に小川を見つけても、

いざそこにたどりついてみると、

もう渇き切っている。

果実のたわわに実った緑の林が遠くに見えて、

そこへあえぎあえぎたどりついてみるのだが、

もう葉っぱすら枯れ落ちてしまっている。

夏は夜の月さえ焼けるほど暑く照り輝き、

冬の太陽は死んだように弱々しく、

ひどい寒さである。

別の餓鬼たちは、

あまりに不幸な身体に生まれついたがために苦しむ。

日大な図々な いるのに、

食道は針の穴ほど、

ガブガブ水を飲んでものどをとおるのはごくわずかで、

そこをとおりぬけている間に渇いてしまう。

食べものが胃にたどりつけたとしても、

夜にはそれが火を発して内臓は焼けただれてしまう。

足はひょろひょろだから、

遠くに食べものを見つけてもそこまでたどりつけない。

別の餓鬼の腹には貪欲な寄生虫が住みついていて、

飢えをさらにかきたてている。

中沢新一『虹の階梯」)

 

畜生

 

畜生、すなわち動物は、

食物連鎖のなかにある苦しみにあえがなくてはならない。

動物には必ず天敵がいるが、

うっかりとその天敵の棲息エリアに入っていくことによって、

食い殺されてしまう。

そのため、常に恐怖と緊張、

そして空腹に心は支配されている。

人間に捕獲された動物も悲惨である。

労役、

見世物、

食糧や毛皮等の生産、

実験台、

ペットといったように好き勝手に扱われ、

最後は食糧として骨の髄まで食い尽くされてしまうのである。

まさに食い殺される苦しみを味わい続ける世界

それこそが動物である。

 

動物には心配ごともなさそうだし、

動物に生まれることはそう悪いことでもなさそうだという人がいるけれど、

それは動物の生の本質を見ていない人の意見である。

確かに動物の生は三悪趣の中では一番ましである。

しかし、動物たちは地獄の住人や餓鬼とはまた

別種の苦しみのくびきにつながれている。

それは愚かさのもたらす苦しみである。

海に住む動物たち、

魚や貝や、

それにそれらよりもっと小さい動物のことを考えてみよ う。

大きい動物は小さい動物を食べ、

小さい動物は大きい動物にへばりついて、

体のくぼみ を食い荒らしている。

彼らは大きな食物連鎖の中にあって、

他の動物を食べ、

自分も他の動物の食べものになっていく、

この輪の中から一歩も外に出られない、

また出ようという智慧もわかない。

陸に住む動物たちも例外ではない。

他の動物や人に殺されて食べられたり

使役されることからまぬかれるのは難しい。

いつもびくびく周囲を警戒していて、

ゆったりできる時間はほとんどない。

とくに、人に殺され使役される動物たちは、

まったく自分の自由というものを奪われている。

羊は人に飼われて毛をとられる。

虎や熊はその毛皮のために殺される。

じゃ香鹿は角めあての狩人がねらっている。

殺して肉をとるために飼われている動物たちは、

さらにあわれである。

彼らは殺されるために生まれ、

育てられるのだから。

しかし動物たちは、

自由を奪われたそんな状態にいながら、

そこからぬけでることができない。

自分でどうしたらよいのか、

わからないのである。

動物の心は愚かさに曇らされている。

愚かさや無知のために、

果てしない苦しみの中にあって、

しかもそこに埋没しているのである。

中沢新一『虹の階梯』)

 

人間
 

人間以上は、

若干の喜びの要素が出てくる。

家族団欒、

異性との付き合い、

結婚、

旅行、

財を増やす喜び、

食の喜び、

名誉欲・権力欲を満たす喜びなどだ。

しかし、その裏には必ず苦しみが隠されている。

「生れる苦しみ」

「老いる苦しみ」

「病の苦しみ」

「死ぬ苦しみ」は、

人間としての生存にまつわる苦しみだ。

これを四苦という。

その基本的な苦しみに加えて、

愛する者と必ず別れなければならない苦しみ(愛別離苦)や、

憎しみの対象と一緒にいなくてはならない苦しみ(怨憎会苦)など、

人間関係から来る苦しみも多く経験しなくてはならない。

また、「求めて得られない苦しみ(求不得苦)」もある。

これら七つをひっくるめていうならば、

「わたしたちを構成している要素そのものによる苦しみ(五陰盛苦)」

ということになる。

これを総称して八苦という。

「四苦八苦」の語源はここにある。

人間は、人間界に存在する喜びにとらわれるがゆえに、

その裏にあるこれらの苦しみを何度も味わうことになる。

 

アシュラ

 

修羅場という言葉がある。

血なまぐさい戦乱または勝ち負けを争う

はげしい闘争の行われる場所をさすが、

もとは「阿修羅王帝釈天と戦う場所」(広辞苑)とある。

アシュラ(阿修羅)は古代インドの神の一族であった。

それが、インドラ神(帝釈天)など

天上の神々に戦いを挑む悪神となった。

仏教では、天龍八部衆の一つとして、

神々と同列に扱われ、

仏法の守護神とされる。

しかし、日本などでは人間より下の世界を指す場合もある。

アシュラは、絶えず闘争を好み、

地下や海底に住むという。

 

アシュラたちをつき動かしているのは嫉妬である。

アシュラは、生まれてこのかた争いばかりくりかえしている。

宿敵は神々である。

神々の世界には、

あらゆる望みをかなえてくれる「如意樹」が生い繁り、

その枝にはあらゆる宝がたわわに実っている。

ところが、神々の世界のすぐ下に住むアシュラの世界には、こ

の「如意樹」の幹と根だけがあらわれていて、

すばらしい木の実をむなしくあおぎ見るばかりである。

アシュラは神々に嫉妬し、

そのあげく戦いをいどむ。

戦いをしかけられた神々の方は、

もともと争いを好まない温和な性格だが、

このときばかりは「粗暴の森」に出かけ、

その泉の水を飲む。

この泉の水を飲むと、

神々は怒りに燃え、

武器をとってアシュラにたちむかっていく。

神将は十三の頭をもつ象にまたがり、

その中央には主神インドラが坐している。

はるかに功徳を積んでいる神々は、

アシュラの敵ではない。

アシュラたちは傷つき、

たおれていく。

この戦いは嫉妬から起こり、

アシュラにひどい苦しみをもたらすのである。

アシュ ラの世界に生まれても、

閉ざされた心からぬけだすことはできないことを、

深く瞑想することだ。

中沢新一「虹の階梯」)

 

 

最後の天は、

六道の中では最も素晴らしい世界とされている。

それは、欲望が完全に満たされる世界という意味において

恵まれた世界なのである。

しかし、天界の喜びも無常であり、

いつかは終わりを迎え、

下の五つの世界のいずれかへと生まれ変わり、

必ず苦しまなくてはならないのだ。

 

輪廻にあるものの中で、

神々は最高の幸福に恵まれている。

生活は快適で、

あまりに何もかも申し分ないために、

神々はかえって究極の心の解放をもたらす修行に

はげもうなどという気をおこさない。

たしかに神々は長寿を楽しむけれど、

いつかはそれもつきて死を迎えることになる。

輪廻を出て、

心の本然のありようにたどりつかないかぎり、

誰でも変化をまぬかれることはできないからである。

神の死がせまると、

それを知らせる五つの《しるし》があらわれる。

まず身体から放っている光が弱くなる。

神の座に坐ってまわりを見まわしても、

以前のような喜びがわいてこない。

それに、そこに坐ってもちっとも快適ではなくなっているのだ。

身体を飾っていた花飾りは色あせ、

いつも清潔だった衣によごれが出て、

身体にまで垢が出てくる。

神々はこれらのしるしを見て死の近いことを知り、

生まれてはじめて悲しみをおぼえる。

友や娘たちも神の死を知って集まってくる。

彼らは、遠くから花をつんできて語りかける。

あなたは死んでいくのですね、

できることなら人間に生まれて、

善をおこなって、

また神に生まれてきてくださいね、と。

死にゆく神は、

神通力で自分の再生の姿をあらかじめ見てしまい、

深い失望を味わう。

自分一人が大いなる幸福から見放され、

ひどく恵まれない環境に落ちていくことを知るからだ。

神々はその不幸な環境になんと七日間もとどまらければならない。

神々の七日間といえば、

人間の七百年に相当する。

結局は、神々も再生に再生を重ねていく輪廻から

脱けでることはできないのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

輪廻転生とそこからの脱却

 

では、私たちはなぜこのような苦しみの多い世界に

転生してしまうのだろうか。

それは、チベット仏教も、

釈迦も、

あるいは哲人ヤージニャヴァルキャも同じく

「業」すなわち「行為」によるものである、

と説いている。

そして、その輪廻から解き放たれること、

すなわち解脱をきわめて重要なこととして認識するのである。

 

輪廻転生は、

再生を繰り返すということであるが、

これはただちに、

再死を繰り返すということにほかならない。

この世に生を享けた者は、

望みどおりには生きられないという葛藤と、

死に代表される喪失の悲哀とを避けることができない。

こう考えたとき、

輪廻転生は苦しみ以外のなにものでもなくなり、

そこからの永遠の脱却である解脱が、

なにものにも替えがたい目標として立ち現われてくる。

解脱したならば、

もはや再び生まれ変わることがなく、

したがって、

今生における死を最終のものとし、

もはや死を繰り返すことがない。

そのような状態を、

人びとは「不死」(アマタ、アムリタ)と呼んだ。

初期仏教でも、

とくに古い文献には、

このことばがよく用いられているが、

別に「涅槃」(ニッバーナ、ニルヴァー ナ)という

ことばが用いられることもある。

「涅槃」というのは、

とくに仏教とジャイナ教の専門用語の観があるが、

ヒンドゥー教でも、

ときとして用いられる。

仏教はまた、

解脱を渡河にたとえ、

輪廻転生の苦しみの世界を「此岸」、

解脱して苦しみから解放された窮極の平安、

寂静の境地、

つまり不死、

涅槃を「彼岸」と呼ぶ。

では、解脱はいかにして可能か。

これは、輪廻転生の原理を見定めることによってのみ可 能である。

そこから、輪廻転生 (因果応報)をもたらす原動力はなにか、

その原動力の担い手(つまり輪廻する主体)はなにかという問題が、

真剣に考究されるようになった。

宮元啓一『仏教誕生』)

 

では、輪廻にあらわれた心が再生をくりかえしながら、

さまざまな苦しみを味わっていくことになる、

その原動力はなんなのだろう。

それは、ほからなぬ私たち自身の行為である。

私たちは善の行為をなし、

不善の行為を捨てなければ、

この輪廻をぬけだすことはできないのである。

ここでいう行為というのは、仕事をしたり、おしゃべりをしたり、泣いたり、笑ったりする、そういう外面にあらわれている行為だけをさしているのではない。もっと広く本質的な意味での行為をさしている。私たちは、あらゆる行為を身体・言葉・意識という三つの側面からとらえてみることができる。さらに、この身体の行為、意識の行為という三つの中で、どれが一番重要かというと、それは意識の行為なのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

他者を排斥したり、怒ったり、生き物を殺すなど、他の魂を傷つける行為を積み重ねることによって地獄に至る。人に施すことなく、一切のものを自分のものとして貪る心を積み重ねていくことによって餓鬼の世界に落ちる。また、遊びや怠惰、眠りなど、無知を背景とした行ないを積み重ねることによって畜生に至る......といった具合である。

したがって、わたしたちの身・口・意の行ないを煩悩的なものから清らかなものへと変えていくことによって、初めて苦界から脱却する可能性が出てくることになる。そのための実践として、仏教などの修行ということが説かれるわけである。