死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

さあ、今こそ「死」について考えよう

 

『あなたは、なぜ、死にたくないのですか?』

『あなたは、なぜ、生きたいのですか?』

 

 

これらの問いに対して、答えられますか?

 

 

ある宗教には

人間が死んだ後

極楽浄土に行くと言われています

 

 

もし死んだ後

そのような幸せな世界に行けるのだとしたら

こんな思い通りにならない世界から抜け出して

幸せな極楽浄土に行けばいいのではないでしょうか?

 

 

そうですよね?

 

 

しかし人間は誰しも、

死ぬことを恐れます。

 

死にたくない

 

と考えてしまいます。

 

 

それはなぜでしょうか?

 

 

もし死んだ後

今よりもよい生活

極楽な生活を送ることができるのなら

死んだ方がいいのではないでしょうか

 

もし死んだ後

今よりもよい生活

極楽な生活を送ることができるかどうか

わからない

から、不安であり

死にたくない

のではないでしょうか

 

 

気づきましたよね?

 

 

わたしたち人間は、死んだ後どうなるかわからないから

生きたいと考えますし、死にたくないと考えるのです

 

 

では、人間が死んだら、どうなるのか?

自分が死んだ後、どうなるのか?

 

そこを考えることは、私たち自身にとって

多大な利益を与えてくれるはずです

 

 

つまり、「」というものを

真正面から見つめること

立ち向かうことが

何よりも必要不可欠なのです

 

 

さあ、今こそ「」について考えてみましょう!

 
 

日本人の死後の世界に対する意識調査

  

 さて、ここで日本人の世論調査結果を見てみましょう

 

1994年の読売新聞社世論調査によると 

 

・死後も霊魂が存在する ・・35.0%

・存在しない ・・・・・・・29.9

・何ともいえない ・・・・・33.2

・無回答・・・・・・・・・・1.9

 

という結果になりました

 

つまり3分の1以上の人が

死後の世界の存在を信じている

ということになります

 

意外でしょうか?

 

また1998年11月にNHK放送文化研究所

「日本人の宗教意識」というアンケートがなされました

その中の「死後の世界」という項目については、

 

・絶対にある・・・・・・・・・6.7%

・たぶんあると思う・・・・・30.3% 

・たぶんないと思う・・・・・23.2% 

・決してない・・・・・・・・11.8% 

・わからない、無回答・・・・27.9% 

 

という結果になりました

ここでも

3分の1以上の人が

「死後の世界がある」

と回答していることが分かりますね

 

これを多いと見るか

それとも少ないと見るか

人によりけりと思いますが

あなたはどう考えますか?

 

 私の知人の話になってしまいますが

「これは年寄りじみた回答ではないか」

という質問がありました

 

 

つまり

年をとるほど信心深くなるから

「死後の世界がある」

という回答が出たのではないか

ということです

 

おそらく彼は

「科学的な教育を受けた若者なら、

そんなばかげたことを信じたりはしないだろう」

と言いたいのだと思います

 

 では

若者に対するアンケート調査を見てみましょう

 

國學院大学井上順孝教授(宗教学)らが、

全国の27大学と、7つの専門学校の学生約3800人

を対象に「宗教意識調査」を行なっています

 

結果はこちらです

 

1992年 死後の世界を信じる・ありうる・・・約70%

1995年 臨死体験を信じる・・・・・・・・・・69%

1995年 輪廻転生を信じる・・・・・・・・・・52% 

 

 驚くべきことに

若者の半数以上が

「輪廻転生を信じる」

と回答していますね

 

これは余談ですが

 1988年の丸山久美子氏が行った調査によると

最先端の現代医学教育を受けている医学生でも

40%が輪廻転生を肯定

50%は霊魂は不滅

だと考えているというデータもあります

 

『人は死んだらどうなるのだろうか?』

 

 私はこの大きな問題の答えを求めて

いろいろな資料や文献を調べてみましたが 

この大問題は決して哲学や宗教の分野に収まらず

科学者の研究対象にもなっていました

 

有名な話では 

科学的でまじめな研究の対象として

臨死体験

前世療法」

「過去世を覚えている子供たちの証言」

などがあります

 

 いろいろな書物の中でも検討するに値する資料

ピックアップして記事にしてみました

 

私の記事や、これらの資料が

死後の世界というものについて

真剣に考えてみようという

あなたにとって

必ずや有益なものとなることを

信じています

 

 

はじめに

 

われわれは何処から来たのか?

われわれは何者か?

われわれは何処にいくのか?

 

これは 

フランスの画家ゴーギャン

最も有名な作品のタイトルです

 

そしてこのような疑問を持つのは

決してゴーギャン一人ではありません

今も昔もそして世界の東でも西でも

多くの人々を悩ませてきました

 

 

あの鴨長明も『方丈記』に次のように記しています 

 

知らず、生まれ死ぬる人、

わたしにはわからない、生まれる人が

いづかたより来たりて、いづかたへか去る

 どこから来て、死ぬ人がどこへ去っていくのか

  

 

また 

 古代ローマ帝国の皇帝にして哲学者であった

マルクス・アウレリウスは 『自省録』で

次のようにつぶやきました

 

さてそこで、

君は次のことを銘記すべきである。

君のこのちっぽけな合成体(肉体)が

(バラバラの原子になって)離散するか、

それとも君の生気(魂)が消滅するか、

それとも移動して

どこか他の場所に配置されるか、

いずれかでなければならないだろう

ということを

 

 

 しかし

そこに結論は示されていません

死ねば肉体が崩壊してそれでおしまいなのか

魂というものがあったとしても

肉体と同時に消滅してしまうのか

それとも別の新しい生が待っているのか......

 

 

 

 さて、ここで日本人の世論調査結果を見てみましょう

 

1994年の読売新聞社世論調査によると 

 

・死後も霊魂が存在する ・・35.0%

・存在しない ・・・・・・・29.9

・何ともいえない ・・・・・33.2

・無回答・・・・・・・・・・1.9

 

という結果になりました

 

つまり3分の1以上の人が

死後の世界の存在を信じている

ということになります

 

意外でしょうか?

 

また1998年11月にNHK放送文化研究所

「日本人の宗教意識」というアンケートがなされました

その中の「死後の世界」という項目については、

 

・絶対にある・・・・・・・・・6.7%

・たぶんあると思う・・・・・30.3% 

・たぶんないと思う・・・・・23.2% 

・決してない・・・・・・・・11.8% 

・わからない、無回答・・・・27.9% 

 

という結果になりました

ここでも

3分の1以上の人が

「死後の世界がある」

と回答していることが分かりますね

 

これを多いと見るか

それとも少ないと見るか

人によりけりと思いますが

あなたはどう考えますか?

 

 私の知人の話になってしまいますが

「これは年寄りじみた回答ではないか」

という質問がありました

 

 

つまり

年をとるほど信心深くなるから

「死後の世界がある」

という回答が出たのではないか

ということです

 

おそらく彼は

「科学的な教育を受けた若者なら、

そんなばかげたことを信じたりはしないだろう」

と言いたいのだと思います

 

 では

若者に対するアンケート調査を見てみましょう

 

國學院大学井上順孝教授(宗教学)らが、

全国の27大学と、7つの専門学校の学生約3800人

を対象に「宗教意識調査」を行なっています

 

結果はこちらです

 

1992年 死後の世界を信じる・ありうる・・・約70%

1995年 臨死体験を信じる・・・・・・・・・・69%

1995年 輪廻転生を信じる・・・・・・・・・・52% 

 

 驚くべきことに

若者の半数以上が

「輪廻転生を信じる」

と回答していますね

 

これは余談ですが

 1988年の丸山久美子氏が行った調査によると

最先端の現代医学教育を受けている医学生でも

40%が輪廻転生を肯定

50%は霊魂は不滅

だと考えているというデータもあります

 

『人は死んだらどうなるのだろうか?』

 

 私はこの大きな問題の答えを求めて

いろいろな資料や文献を調べてみましたが 

この大問題は決して哲学や宗教の分野に収まらず

科学者の研究対象にもなっていました

 

有名な話では 

科学的でまじめな研究の対象として

臨死体験

前世療法」

「過去世を覚えている子供たちの証言」

などがあります

 

 いろいろな書物の中でも検討するに値する資料

ピックアップして記事にしてみました

 

私の記事や、これらの資料が

死後の世界というものについて

真剣に考えてみようという

あなたにとって

必ずや有益なものとなることを

信じています

 

 

おわりに

 

 

 本書では、死後の世界の仕組みを、チベットに伝わる『バルド・トゥドゥル(チベット死 者の書)』をはじめとして、世界中の神話・宗教から概観してみた。

 これらの教えが真実かどうかは、確かに、実際の死を経験してみない限り、確認できないことかもしれない。だが、私たちは、死後の世界があると考えて生きるのか、それともないと考えて生きるのか、どちらかの生き方の選択を迫られる。ソギャル・リンポチェはいう。

 

「そんなに強情に死後の生を否定する理由は何ですか? 何か根拠があるのですか? 死後の生の存在を否定したまま死んでみたら、その先にまた別の生があった!? もしそうなっ て、その時あなたに何ができます? 死後の生など存在しないと信じ込むことで、あなたは自分に限界を設けているのではないでしょうか。たとえあなたのいう”具体的な証拠”がなくとも、死後の生の可能性に対して疑わしきは罰せずの姿勢でいるほうが、少なくとも開かれた姿勢でいるほうが、ずっと理にかなっているのではないでしょうか。一体何が死後の生 の”具体的な証拠”になるというのでしょうね?」

 また、わたしは皆にこう自問してもらいたいと思っている。すべての主要な宗教がこの生 ののちの生を信じてきたのはなぜなのか。偉大なる哲学者、賢人、アジアの創造的な天才と いった人々はもちろん、歴史上の無数の人々がその人生の重要な一部としてこの信仰を生き てきたのはなぜなのか。彼らは皆ただ単にかつがれていただけなのか。

 

 確かに、頭ごなしに否定するのではなく、「あるかもしれない」と考えてもいいような気はする。絶対に存在しない、とは、数々の実例からも断定しにくいのであるから。  私はこれからも、真実の死後の世界について調べていきたいと思っている。そして、その中間発表であるこの冊子が、真実の死後の世界を求める人たちのガイドラインの一つになれば幸いであると考えている。

16 バルド・トゥドゥルを検証する

臨死体験とバルド・トゥドゥルには共通性がある

 

私の死後の世界の研究において

『バルド・トゥドゥル』を重要視したのは、

それが世界各地の

神話・伝説、あるいは哲学・宗教における

死生観を包括しているように思われたからである。

死後、

冥府へ赴き、

そして神の裁きを受け、

すばらしい世界または地獄へと至る

......このような、

一見輪廻転生とは違う死生観も、

冥府をバルドと置き換え、

神の裁きを閻魔の裁きとし、

その後の天国や地獄を次の転生先と考えるならば、

矛盾はなくなってくるのではないか。

つまり、一度きりの死から生へのプロセスを説いているのか、

それとも数多くの転変の様子を描いているのか、

という違いにすぎず、

これらはすべて共通して同じ

死後の世界を違った言葉で表現しているにすぎない、

ということになろう。

とすれば、古今東西、あらゆる人

(人だけではないかもしれないが)の死後は、

同じようなことを体験する、

と説かれているといってもいいのかもしれない。

そして、神話や宗教に描かれている死後の世界については、

第一分冊でも検討したように、

現代版の「体験」がある。

臨死体験である。

この臨死体験と『バルド・トゥドゥル』の内容は、

多くの点で共通項が多い。

ソギャル・リ ンポチェ著の『チベット生と死の書』によると、

バルドでの体験と臨死体験では、

つぎのような点で共通性が見られるという。

 

◎闇とトンネル

死のバルドの溶解のプロセスの最終段階では

〈顕現近得〉と呼ばれる真っ黒な顕れが

「真っ 暗な闇に覆われたなにもない空」にたちのぼる。

ここに至福と歓喜の瞬間があると教えは説く。

臨死体験の主な特徴のひとつに、

暗い虚空を、

「完全に安らぎに満ちた、驚くほど暗い闇」のなかを、

「長くて暗いトンネル」のなかを、

「猛烈なスピード」で

「重さを全く感じることなく」

移動していくような印象がある。

 

◎光

死の瞬間には、

根源の光明が赫々たる姿でたちのぼる。

チベット死者の書』にはこう記されている。

「悟りし者の家系の息子よ/娘よ(善男善女)、

......汝の明知は澄明にして空であり、

不可分であり、

光の広大な界に住している。

そこには生も死もなく、

不変の光の仏(阿弥陀仏)そのものである」

子供たちの臨死体験を専門に調査した

メルヴィン・モースはこのように述べている。

「子供たちの臨死体験者のほとんどに

(そして大人の臨死体験者の約四分の一にも)、

光の要素がある。

子供たちはみな、

体外離脱体験やトンネルを抜けた後に

くる臨死体験の最終段階で、

光が現れたと報告している」

(『Closer to the Light』)

 

◎体外離脱

ほとんどの場合、

臨死体験は体外離脱とともに始まる。

人々は自分の肉体を、

その周囲を見ることができる。

これは『チベット死者の書』の記述と一致する。

 

◎なすすべもなく親族を見守る

再生のバルドにある死者は、

親族を見たり、

話を聞くことができるにもかかわらず、

意志の疎通ができないため、

時にひどい欲求不満に陥ることは前に述べた。

フロリダの女性は天井近くから

母親を見下ろしていた時の体験を

マイクル・B・セイボムに語っている。

「一番悲しかったのは、

自分が無事なことをどうしても

母に知らせることができなかったこと。

自分が無事なことは何故かわかっていましたが、

それを母に伝えるすべだけはわからなかったのです......」

(『あの世』からの帰還)

 

◎完全なる肉体、どこにでも移動できる力、透視眼

チベット死者の書』は再生のバルドの意成身について

「黄金時代の肉体のよう」であり、

超自然的な可動性と透視眼を有していると述べている。

臨死体験においても、

人々は壮年期の完璧な肉体を有している。

また、この時、

思考の力で瞬時に移動できることも知られている。

多くの臨死体験者は

「初めの時より終わりの時に至るまで」

のすべてを知り尽くしているような

透視眼的感覚を報告している。

 

◎他者と出会う

チベット仏教の教えによると、

再生のバルドの意成身は、

バルドの中で他の存在に出会うという。

同様に臨死体験者も、

自分より先に死んだ者としばしば会話を交わす。

 

◎異なる世界

再生のバルドの意成身は、

多様なヴィジョンを、

特にさまざまな世界のヴィジョンやしるしを目にする。

臨死体験から甦った人々の数パーセントは、

妙なる音楽が奏でられる内なる世界、

天国、光の輝きにみちた街といったヴィジョンを目にしている。

 

◎地獄のヴィジョン

チベット仏教の教えからも想像できるように、

臨死体験の記述のすべてが肯定的なものとは限らない。

再生のバルドの記述を思い起こさせる恐怖やパニック、

孤独、わびしさ、悲哀といった恐るべき体験を報告する者もいる。

ある者は嵐のような巨大な黒い渦巻きに

吸いこまれるような体験をした

とマーゴット・グレイに語っている。

こうした否定的な体験をする者は、

再生のバルドで低い世界に転生しかかっている者と同じく、

上方ではなく下方に旅をしているような感覚を味わう。

地獄のヴィジョンとしか呼べないような体験を

―耐えがたい暑さや極寒を味わったり、

野獣の叫びや拷問される者の悲鳴を耳にした者もいる。

 

ちなみに、チベットにも死後の世界を体験し、

そして生き返った者たちが歴史上多数記録されており、

それはデーロク(死から甦った者)を意味する。

 

チベット仏教は輪廻を否定する?

 

週刊文春」二○○○年二月三日号に、

時評家・宮崎哲弥氏のコラム

「異見ありチベット「活仏」に宗教的意味はない?」

が掲載された。

 

テレビや新聞はこぞって、

「活仏」がまるで宗教的に重要な意味のある

慣習であるかのように報じた。

輪廻転生がチベット仏教全体の根本的な教義である

との印象を受けた人も少なくないだろう。

一昔前の『チベット死者の書』ブームのときにも

同様の有様だったが、

チベットの仏教や歴史を多少なりとも

知るものにとっては苦々しい限りだ。

.....ダライ・ラマの所属宗派であり、

チベット仏教中最大にして正統なる宗派であるゲルク派は、

根本教理において輪廻転生の実在を認めていない。

ゲルク派の宗祖は高名なツォンカパだが、

彼が仏教最高の見解として奉じたのは、

インドの仏教学者、

チャンドラキールティ(月称)の立てた

中観帰謬論証派の思想である。

注目すべきことに、

ツォンカパが高く評価する

チャンドラキールティの代表作

『中論註(プラサンナパダー)』では、

「輪廻は決して存在しない」ことが

厳密に論証されているのである。

またツォンカパ自身の著作でも

「無尽意経」という経典を引きながら、

霊魂や恒久の自我やらの実在を説く教えを

「未了義」であると明確に規定している。

「未了義」とは不充分な見解、

まだ導く余地を残す仮の教えであり、

要するに方便のことである。

これに対し「了義」 の教え、

すなわち完成した最高の真理とは無霊魂、

無我であるとされる。

無霊魂説、

無我説が究極の真理であるのならば、

「輪廻転生が存在しない」のは理の当然である。

生きているときにも、

変化せざる「我」はなく(無我)、

かつ「我」の本体も存在しない(無霊魂)のに、

どうして死後の永続する「我」が想定できようか。

チャンドラキールティやツォンカパは

仏教の論理の骨法に則ってそう考えたのである。

ところが、ツォンカパの死後ゲルク派に導入された

「転生活仏」制は明らかに宗祖の教えに反するものだった。......

 

専門用語が並ぶが、

要約するならば宮崎氏は、

チベット仏教の最大宗派であるゲルク派では、

「根本教理において輪廻転生の実在を認めていない」と

断定しているのである。

この見解について、

ダライラマの仏教哲学講義」(大東出版社刊)

の訳者でもある福田洋一氏は、

インターネット上でこのような見解を発表している。

 

チャンドラキールティやツォンカパは中論に基づき、

輪廻を否定している、

というわけですが、

もちろんこんなことはありません。

誤解を恐れず、

簡単に言えば、

中観思想が否定しているのは、

実体的な存在ですので、

輪廻であれ、

涅槃であれ、

それどころか空性思想でさえも、

みな等しく実体的には存在しないということを

言っているにすぎないわけで、

ツォンカパが輪廻が存在しない、

などと言っていないどころか、

事実はその真逆、

つまり、輪廻も涅槃も凡夫も仏陀も、

すべて存在する(ただし実体的に、ではなく)ということを、

繰り返し主張しているのです。

これこそが中観思想が他のいかなる思想とも異なる、

独自な主張の肝心要の点だ

(これを書斎仏教学的には「中観派の不共の勝法」と言います)と、

これも繰り返し繰り返し説いているのです。

.....

チベット仏教では、

まず、輪廻を認めないことには、

最初の一歩を踏み出すこともできません。

仏教に入るには、

最初に輪廻を確かに承認しなければなりません。

これを認めない、

などとチベット人僧侶に言ったら、

かれらは悲しい顔をして、

この人は今生では仏教に無縁の人なのだと思うことでしょう。

ツォンカパがラムリム(覚りへと至る道の階梯)の

根本要因として三つの項目を挙げた詩を作っています。

......ここには、チベット仏教を支える根本的動機が、

極めて簡潔に、

かつ感動的に

(拙訳がそれを再現しているわけではないのですが。)

凝縮されています。

三つの要因とは、

この輪廻から解脱したいという出離の心を持つこと、

次に一切衆生を解脱させるために

自ら仏道修行を成し遂げようという菩提心を起こすこと、

そして、縁起と空が相即の関係にあることに

対する正しい理解を得ること、です。

この最後に出てくる縁起とは、

輪廻から涅槃に至るまでの一切のものが

成り立つことであり、

それは空であること

(すなわち実体的には存在しないこと)

が必要条件になるのです。

この三つの要因はすべて、

輪廻の存在、

そしてわれわれ一切の命あるものが、

輪廻をしていることを前提としていることは

言うまでもないことです。

.....

仏教にとって輪廻は価値論の文脈で

取り上げられたものではなく、

まさしく存在しているものの一つであり、

存在論に属するわけです。

しかも、それが単なる存在論ではなく、

直接、仏道修行の前提になっているという意味で、

価値論的なものでもあるのです。

「@BODDO 特集宮崎哲弥「異見あり」に異見あり!」より

 

中観思想についてここでは深く追究しないことにするが、

宮崎氏によれば輪廻を否定して いるという

中観思想の祖ツォンカパ自身が、

輪廻の存在を前提とした教えを説いている、

と いうことは事実のようである。

 

 

15 六道輪廻の構造

苦しみの世界としての六道

 

チベット仏教では、

わたしたちが輪廻転生する世界を五つ、

または六つに規定している。

 

それは下の世界から順に、

 

・地獄

・餓鬼

・畜生(動物)

・人間

・阿修羅

・天

 

となっている。

 

仏教の流派によっては、

「阿修羅」と「天」をひとまとめにして「天」とする場合もある。

また、日本では人間の下に修羅道を置く場合が多いが、

ここでは、チベット仏教の教えに合わせて

六つの世界として見ていくことにしよう。

 

仏教の教えでは、

六道は苦しみの世界であると規定されている。

まず下から三つの世界(地獄・餓鬼・畜生)は、

激しい苦しみの世界となっている。

人間界以上は次第に喜び多き世界になってくるが、

わたしたちがこの「六道」を流転し続ける限り、

いずれは苦しみの世界に落ちて、

気も遠くなるほどの長い間、

責め苦を受け続けなくてはならない。

 

したがって、

「六道」はそれ自体が苦界とされているのである。

「苦しみ多き輪廻の世界」の項のところで述べたように、

六道はあくまで脱却すべき世界なのである。

そのために解脱が求められるのである。

 

では、

それぞれの世界にどのような苦しみが待ち受けているかについて、

見てみることにしよう。

 

地獄の住人は業火に焼かれ

餓鬼は飢えとかわきに滅ぼされ

動物はたがいの捕食に苦しめられ

人間は命の短さによって死にうせ

アシュラは闘争と口論に滅亡し

神々は充足によって死をおそれる

輪廻の生は針の先のようなもの

そこに真の幸福はみいだせない

(『デンパ・ニェルシャク』)

 

地獄

 

地獄は六道の中で、

最も苦しみの多い世界である。

いや、苦しみしかない世界と言っていいだろう。

地獄の世界は、

熱地獄(極端な暑さ・熱さ)

寒冷地獄(極端な冷たさ)

痛覚地獄(極端な痛さ)

の大きく三種類に分けられる。

それがさらに、

苦しみの大きさに応じて何層かに分かれている。

下の方の地獄に行けば行くほど、

苦しみの度合いは大きくなり、

そこにとどまる期間も長くなっている。

だが、これらの苦しみも、

その地獄の住人たちがそれ以前の生においてなした

行ないによって生じているのである。

何度も何度も地獄に生まれ変わり続けた末に、

いずれは別の世界に転生することも可能であるという。

 

地獄には十八の種類があり、

そのうちの八つは熱地獄といわれている。

 

八熱地獄は一番上の「等活地獄」にはじまって、

下に行くにつれ苦しみが増していく。

等活地獄」に生まれてきているのは、

瞑りにまかせて争いをくりかえしていたものたちである。

この地獄の住人たちはここで、

かつて激しく闘った旧敵にまみえ、

ふたたび武器をとって闘いはじめる。

激しい争いのすえ、

みな死にたえてしまうと、

天から「蘇りなさい」という声が聞こえ、

彼らはまた息を吹きかえして闘いはじめる。

この地獄の生は闘いのくりかえしである。

この地獄の苦しみはどれくらいつづくのか。

四天王界の神の一日は人間の五十年に相当し、

これが三百六十五日集まって神の一年となるが、

その神の五百年がこの地獄の一日にあたるという。

等活地獄」の住人は、

そんな日々を五百年も送るのである。

 

第二の熱地獄は「黒縄地獄」と呼ばれる。

閻魔王の獄卒たちが住人たちを束にして、

その身体に四本・八本・十六本・三十二本と線を引き、

その線にそって焼けた鉄ののこぎりで身体を刻んでいくのである。

この地獄の住人はこんなふうに切り刻まれても死ねないで、

苦しみだけが残っていくのである。

ここの住人は「等活地獄」の住人より長生きをする。

三十三天界の神の一日は人間の百年にあたるという。

それが千年集まって「黒縄地獄」の住人の一日に相当する。

この地獄の住人はそんな日々を一千年もすごすのである。

 

第三の熱地獄は「衆合地獄」である。

数え切れないくらいたくさんの生き物が、

焼けただれた鉄の臼に入れられる。

その臼めがけて、

山のように巨大な杵がふりおろされ、

みなを押しつぶしてしまう。

すると杵がもちあがって、

みな生きかえる。

この地獄の住人たちは、

このような恐怖と苦しみを気の遠くなるくらい

長い間味わいつづけるのである。

夜摩天に住む神々の一日は人間の二百年に相当し、

それが二千年も集まって「衆合地獄」の一日をつくる。

この地獄の住人は、

そんな日々を二千年もすごさなければならないのである。

 

第四熱地獄は「号叫地獄」と呼ばれる。

ここでは扉も窓もない焼けた鉄の部屋に押しこまれた

数え切れないほどの住人たちが、

いつも苦しみの号叫をあげている。

兜率天の神の一日は人間の四百年に相当する。

神の四千年が集まって「号叫地獄」の一日となり、

住人はそれを四千年も生きつづけなければいけない。

 

第五熱地獄は「大叫地獄」である。

二つの焼けた鉄の部屋が入れ子状になっている。

内側の部屋に入れられた住人たちが、

かりに外に出られたとしても、

そこにもまた別の焼けた鉄 の部屋を見つけて、

深い失望と前にも増した苦しみを味わうことになる。

楽変化天の一日は人間の八百年にあたり、

その神の八千年が「大叫地獄」の一日に相当する。

地獄の住人たちは、

その苦しみを八千年も味わいつづけねばならないのである。

 

第六熱地獄は「炎熱地獄」だ。

宇宙全体をもおおうかと思われる巨大な鉄の鍋に、

焼けただれた鉄がみたされ、

その中にこの地獄の住人たちがつき落とされる。

苦しさのあまり住人が表面に浮かびあがってくると、

地獄の獄卒が鉄の鉤でおさえつけ、

したたかなぐりつける。

他化自在天の神の一日は、

人間の千六百年にあたる。

その神の一万六千年が「炎熱地獄」の一日に相当し、

そんな日々を「炎熱地獄」の住人は一万六千年も味わいつづける。

 

第七熱地獄は「大熱地獄」である。

地獄の獄卒が手にもった焼けた鉄でできた三叉を

ここの住人に刺しつらぬいて苦しめる。

三叉は、両足のかかとと尻の穴からつきささり、

頭と肩 につきぬけている。

この地獄の苦しみがどのくらいつづくか、

もう数えることができない。

 

最も過酷な八番目の地獄は「無間地獄」と呼ばれている。

灼熱の家に押しこまれた生き物たちに、

たえずふいごにあおらされた火が吹きつけて、

火も身体も見分けができないほどになっている。

この地獄の苦しみを、

第七熱地獄の倍も長い間耐えなければならないという。

この地獄に生まれてくるのは、

父母を殺すなど恐るべき五つの大罪をおかした者と、

密教の修行者で師にそむいた者だけである。

気の遠くなるような長い間

この第八熱地獄の苦しみを味わいつづけたあと、

この地獄から解き放たれたあとも、

地獄の住人は四方にある近隣の地獄

―それぞれ火灰、屍糞の泥、刃の原、剣の森と呼ばれている―

をたどらなければならない。

「無間地獄」をぬけでた地獄の住人は、

はるかかなたに灰色の野原が広がっているのを見て小躍りし、

そこへかけこんでみると、

たちまち熱した灰の中に埋もれてしまう。

火灰の地獄をぬけでた住人は、

遠くにすばらしい湖を見るだろう。

もう長いことのどがからからだった地獄の住人は、

大喜びでかけだ彼の頭にしゃぶりついてくるのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

ここに挙げたのは「熱地獄」や「痛覚地獄」の描写だが、

「寒冷地獄」はこれらの地獄よりも苦しく、

とどまる期間が長いとされている。

 

餓鬼

 

餓鬼界は、

果てしない飢えと渇きに苦しめられる世界である。

人間の世界でも、

アフリカの難民などを見ると、

まさに餓鬼の世界を思わせるような、

悲惨な飢えと渇きの苦しみが蔓延している。

しかし、人間の世界は、

極度の飢え・渇きに陥ると死に至ってしまうが、

餓鬼の世界はその状態でも死ぬことができないという。

「死んだほうがまし」と思える苦しみの中を、

死ぬことができずにひたすら苦しみのた打ち回っているのだ。

餓鬼に生まれたものは、

地獄の住人のつぎにひどい苦しみを味わうことになる。

餓鬼は私たち人の世界とはちがう次元に住むこともあるし、

人間界をうろついていることもある。

餓鬼は飢えと渇きに苦しんでいる。

まず生まれた環境のせいで、

ひどい苦しみをなめている餓鬼たちがいる。

荒れはてた不毛な土地に生まれた彼らは、

食べものや水を探して、

もう何百年もさまよいつづけているけれど、

ひとかけらの食べもの、

一滴の水さえ見つけることができない。

向こうの方に小川を見つけても、

いざそこにたどりついてみると、

もう渇き切っている。

果実のたわわに実った緑の林が遠くに見えて、

そこへあえぎあえぎたどりついてみるのだが、

もう葉っぱすら枯れ落ちてしまっている。

夏は夜の月さえ焼けるほど暑く照り輝き、

冬の太陽は死んだように弱々しく、

ひどい寒さである。

別の餓鬼たちは、

あまりに不幸な身体に生まれついたがために苦しむ。

日大な図々な いるのに、

食道は針の穴ほど、

ガブガブ水を飲んでものどをとおるのはごくわずかで、

そこをとおりぬけている間に渇いてしまう。

食べものが胃にたどりつけたとしても、

夜にはそれが火を発して内臓は焼けただれてしまう。

足はひょろひょろだから、

遠くに食べものを見つけてもそこまでたどりつけない。

別の餓鬼の腹には貪欲な寄生虫が住みついていて、

飢えをさらにかきたてている。

中沢新一『虹の階梯」)

 

畜生

 

畜生、すなわち動物は、

食物連鎖のなかにある苦しみにあえがなくてはならない。

動物には必ず天敵がいるが、

うっかりとその天敵の棲息エリアに入っていくことによって、

食い殺されてしまう。

そのため、常に恐怖と緊張、

そして空腹に心は支配されている。

人間に捕獲された動物も悲惨である。

労役、

見世物、

食糧や毛皮等の生産、

実験台、

ペットといったように好き勝手に扱われ、

最後は食糧として骨の髄まで食い尽くされてしまうのである。

まさに食い殺される苦しみを味わい続ける世界

それこそが動物である。

 

動物には心配ごともなさそうだし、

動物に生まれることはそう悪いことでもなさそうだという人がいるけれど、

それは動物の生の本質を見ていない人の意見である。

確かに動物の生は三悪趣の中では一番ましである。

しかし、動物たちは地獄の住人や餓鬼とはまた

別種の苦しみのくびきにつながれている。

それは愚かさのもたらす苦しみである。

海に住む動物たち、

魚や貝や、

それにそれらよりもっと小さい動物のことを考えてみよ う。

大きい動物は小さい動物を食べ、

小さい動物は大きい動物にへばりついて、

体のくぼみ を食い荒らしている。

彼らは大きな食物連鎖の中にあって、

他の動物を食べ、

自分も他の動物の食べものになっていく、

この輪の中から一歩も外に出られない、

また出ようという智慧もわかない。

陸に住む動物たちも例外ではない。

他の動物や人に殺されて食べられたり

使役されることからまぬかれるのは難しい。

いつもびくびく周囲を警戒していて、

ゆったりできる時間はほとんどない。

とくに、人に殺され使役される動物たちは、

まったく自分の自由というものを奪われている。

羊は人に飼われて毛をとられる。

虎や熊はその毛皮のために殺される。

じゃ香鹿は角めあての狩人がねらっている。

殺して肉をとるために飼われている動物たちは、

さらにあわれである。

彼らは殺されるために生まれ、

育てられるのだから。

しかし動物たちは、

自由を奪われたそんな状態にいながら、

そこからぬけでることができない。

自分でどうしたらよいのか、

わからないのである。

動物の心は愚かさに曇らされている。

愚かさや無知のために、

果てしない苦しみの中にあって、

しかもそこに埋没しているのである。

中沢新一『虹の階梯』)

 

人間
 

人間以上は、

若干の喜びの要素が出てくる。

家族団欒、

異性との付き合い、

結婚、

旅行、

財を増やす喜び、

食の喜び、

名誉欲・権力欲を満たす喜びなどだ。

しかし、その裏には必ず苦しみが隠されている。

「生れる苦しみ」

「老いる苦しみ」

「病の苦しみ」

「死ぬ苦しみ」は、

人間としての生存にまつわる苦しみだ。

これを四苦という。

その基本的な苦しみに加えて、

愛する者と必ず別れなければならない苦しみ(愛別離苦)や、

憎しみの対象と一緒にいなくてはならない苦しみ(怨憎会苦)など、

人間関係から来る苦しみも多く経験しなくてはならない。

また、「求めて得られない苦しみ(求不得苦)」もある。

これら七つをひっくるめていうならば、

「わたしたちを構成している要素そのものによる苦しみ(五陰盛苦)」

ということになる。

これを総称して八苦という。

「四苦八苦」の語源はここにある。

人間は、人間界に存在する喜びにとらわれるがゆえに、

その裏にあるこれらの苦しみを何度も味わうことになる。

 

アシュラ

 

修羅場という言葉がある。

血なまぐさい戦乱または勝ち負けを争う

はげしい闘争の行われる場所をさすが、

もとは「阿修羅王帝釈天と戦う場所」(広辞苑)とある。

アシュラ(阿修羅)は古代インドの神の一族であった。

それが、インドラ神(帝釈天)など

天上の神々に戦いを挑む悪神となった。

仏教では、天龍八部衆の一つとして、

神々と同列に扱われ、

仏法の守護神とされる。

しかし、日本などでは人間より下の世界を指す場合もある。

アシュラは、絶えず闘争を好み、

地下や海底に住むという。

 

アシュラたちをつき動かしているのは嫉妬である。

アシュラは、生まれてこのかた争いばかりくりかえしている。

宿敵は神々である。

神々の世界には、

あらゆる望みをかなえてくれる「如意樹」が生い繁り、

その枝にはあらゆる宝がたわわに実っている。

ところが、神々の世界のすぐ下に住むアシュラの世界には、こ

の「如意樹」の幹と根だけがあらわれていて、

すばらしい木の実をむなしくあおぎ見るばかりである。

アシュラは神々に嫉妬し、

そのあげく戦いをいどむ。

戦いをしかけられた神々の方は、

もともと争いを好まない温和な性格だが、

このときばかりは「粗暴の森」に出かけ、

その泉の水を飲む。

この泉の水を飲むと、

神々は怒りに燃え、

武器をとってアシュラにたちむかっていく。

神将は十三の頭をもつ象にまたがり、

その中央には主神インドラが坐している。

はるかに功徳を積んでいる神々は、

アシュラの敵ではない。

アシュラたちは傷つき、

たおれていく。

この戦いは嫉妬から起こり、

アシュラにひどい苦しみをもたらすのである。

アシュ ラの世界に生まれても、

閉ざされた心からぬけだすことはできないことを、

深く瞑想することだ。

中沢新一「虹の階梯」)

 

 

最後の天は、

六道の中では最も素晴らしい世界とされている。

それは、欲望が完全に満たされる世界という意味において

恵まれた世界なのである。

しかし、天界の喜びも無常であり、

いつかは終わりを迎え、

下の五つの世界のいずれかへと生まれ変わり、

必ず苦しまなくてはならないのだ。

 

輪廻にあるものの中で、

神々は最高の幸福に恵まれている。

生活は快適で、

あまりに何もかも申し分ないために、

神々はかえって究極の心の解放をもたらす修行に

はげもうなどという気をおこさない。

たしかに神々は長寿を楽しむけれど、

いつかはそれもつきて死を迎えることになる。

輪廻を出て、

心の本然のありようにたどりつかないかぎり、

誰でも変化をまぬかれることはできないからである。

神の死がせまると、

それを知らせる五つの《しるし》があらわれる。

まず身体から放っている光が弱くなる。

神の座に坐ってまわりを見まわしても、

以前のような喜びがわいてこない。

それに、そこに坐ってもちっとも快適ではなくなっているのだ。

身体を飾っていた花飾りは色あせ、

いつも清潔だった衣によごれが出て、

身体にまで垢が出てくる。

神々はこれらのしるしを見て死の近いことを知り、

生まれてはじめて悲しみをおぼえる。

友や娘たちも神の死を知って集まってくる。

彼らは、遠くから花をつんできて語りかける。

あなたは死んでいくのですね、

できることなら人間に生まれて、

善をおこなって、

また神に生まれてきてくださいね、と。

死にゆく神は、

神通力で自分の再生の姿をあらかじめ見てしまい、

深い失望を味わう。

自分一人が大いなる幸福から見放され、

ひどく恵まれない環境に落ちていくことを知るからだ。

神々はその不幸な環境になんと七日間もとどまらければならない。

神々の七日間といえば、

人間の七百年に相当する。

結局は、神々も再生に再生を重ねていく輪廻から

脱けでることはできないのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

輪廻転生とそこからの脱却

 

では、私たちはなぜこのような苦しみの多い世界に

転生してしまうのだろうか。

それは、チベット仏教も、

釈迦も、

あるいは哲人ヤージニャヴァルキャも同じく

「業」すなわち「行為」によるものである、

と説いている。

そして、その輪廻から解き放たれること、

すなわち解脱をきわめて重要なこととして認識するのである。

 

輪廻転生は、

再生を繰り返すということであるが、

これはただちに、

再死を繰り返すということにほかならない。

この世に生を享けた者は、

望みどおりには生きられないという葛藤と、

死に代表される喪失の悲哀とを避けることができない。

こう考えたとき、

輪廻転生は苦しみ以外のなにものでもなくなり、

そこからの永遠の脱却である解脱が、

なにものにも替えがたい目標として立ち現われてくる。

解脱したならば、

もはや再び生まれ変わることがなく、

したがって、

今生における死を最終のものとし、

もはや死を繰り返すことがない。

そのような状態を、

人びとは「不死」(アマタ、アムリタ)と呼んだ。

初期仏教でも、

とくに古い文献には、

このことばがよく用いられているが、

別に「涅槃」(ニッバーナ、ニルヴァー ナ)という

ことばが用いられることもある。

「涅槃」というのは、

とくに仏教とジャイナ教の専門用語の観があるが、

ヒンドゥー教でも、

ときとして用いられる。

仏教はまた、

解脱を渡河にたとえ、

輪廻転生の苦しみの世界を「此岸」、

解脱して苦しみから解放された窮極の平安、

寂静の境地、

つまり不死、

涅槃を「彼岸」と呼ぶ。

では、解脱はいかにして可能か。

これは、輪廻転生の原理を見定めることによってのみ可 能である。

そこから、輪廻転生 (因果応報)をもたらす原動力はなにか、

その原動力の担い手(つまり輪廻する主体)はなにかという問題が、

真剣に考究されるようになった。

宮元啓一『仏教誕生』)

 

では、輪廻にあらわれた心が再生をくりかえしながら、

さまざまな苦しみを味わっていくことになる、

その原動力はなんなのだろう。

それは、ほからなぬ私たち自身の行為である。

私たちは善の行為をなし、

不善の行為を捨てなければ、

この輪廻をぬけだすことはできないのである。

ここでいう行為というのは、仕事をしたり、おしゃべりをしたり、泣いたり、笑ったりする、そういう外面にあらわれている行為だけをさしているのではない。もっと広く本質的な意味での行為をさしている。私たちは、あらゆる行為を身体・言葉・意識という三つの側面からとらえてみることができる。さらに、この身体の行為、意識の行為という三つの中で、どれが一番重要かというと、それは意識の行為なのである。

中沢新一「虹の階梯」)

 

他者を排斥したり、怒ったり、生き物を殺すなど、他の魂を傷つける行為を積み重ねることによって地獄に至る。人に施すことなく、一切のものを自分のものとして貪る心を積み重ねていくことによって餓鬼の世界に落ちる。また、遊びや怠惰、眠りなど、無知を背景とした行ないを積み重ねることによって畜生に至る......といった具合である。

したがって、わたしたちの身・口・意の行ないを煩悩的なものから清らかなものへと変えていくことによって、初めて苦界から脱却する可能性が出てくることになる。そのための実践として、仏教などの修行ということが説かれるわけである。

14 『チベット死者の書』が説く輪廻転生のプロセス

輪廻転生の全プロセス

 

チベット死者の書によると、

わたしたちの死から新しい生へのプロセス、

つまり、輪廻転生の過程は次のようになる。

 

0【現世の自然なバルド】

○死のプロセス

・外なる溶解(五感と四大元素が溶解する)→現代医学的な死

・内なる溶解(概念的思考や煩悩が溶解する)

・顕現(真っ白な顕われ)

・顕現増広(真っ赤な顕われ)

・顕現近得(真っ黒な顕われ)

 

1【死の苦痛に満ちた、バルド】

チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)

○根源の光明の出現

○空が光に溶けこむ

 

2【法性の光り輝く、バルド】

チューニー・バルド(心の本体のバルド)

○光が融合へ溶けこむ

○融合が智慧に溶けこむ

智慧が自然の存在に溶けこむ

 

スィパ・バルド(再生のバルド)

○意成身を得る

○審判

○再生のヴィジョン

 

4【現世の自然なバルド】

○誕生

 

死の三つのバルド

 

死のバルドは

チカー・バルド、

チューニー・バルド、

スィパ・バルド

の三段階があるが、

これは、仏教の宇宙観にある「三界」に対応し、

それぞれの世界を経験するバルドであると説かれている。

三界とは、欲界・色界・無色界の三つを指す。

 

1欲界

いわゆる六道

――地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天――

が展開されている。

わたしたちは、現在、この欲界にある人間界に生存しているのである。

一般に言う輪廻転生の世界は、

この欲界の範囲内を指し、

この世界から脱却することが仏教の目的の一つとされていることは、

先に説明したとおりである。

スィパ・バルドで経験する。

 

2色界

欲界よりも微細な世界で、

波動やイメージでできた世界である。

ここには欲界よりも崇高な、

大変美しい容姿をした神々の世界が展開されているという。

チューニー・バルドで経験する。

 

3無色界

光がその主要素になっている世界で、

欲界・色界よりもさらに崇高な境地が展開されている。

チカー・バルドで経験する。

 

それでは、それぞれのプロセスをもう少し詳しく見ていこう。

以下、特に断らない限り、

引用はソギャル・リンポチェ著『チベットの生と死の書』からである。

 

死のプロセス

 

わたしたちは、死んだらどのような体験をするのだろうか。

チベット仏教の教えによると、

まず「死のプロセス」を経験する。

それは、外なる溶解と内なる溶解のプロセスが来るとされている。

 

・外なる溶解

(1)五感が衰えていく。

(2)地の元素が溶解......固体成分の溶解。物理的身体が衰えていく。

(3)水の元素が溶解......液体成分の溶解。感受作用が衰えていく。

(4)火の元素が溶解......体温(熱成分)の溶解。表象作用が崩れていく。

(5)風の元素が溶解......呼吸の溶解。意志的形成作用が崩れていく。

(6)意識はしばらく心臓にとどまる

 

・内なる溶解

(7)白い顕れが下りてくる......怒りから生じる思考の消滅

(8)赤い顕れが登ってくる......貪りから生じる思考の消滅

(9)真っ黒な顕れを見る......無智から生じる思考の消滅

 

◎外なる溶解のプロセス――五感と四大元素

外なる溶解のプロセスにおいては、五感と四大元素が溶解する。

わたしたちは死ぬとき、

正確にはいかなる体験をしているのであろうか?

最初に気づくのは、五感の機能が停止していくことだ。

自分のベッドのまわりで人々が話している。

声は聞こえているのだが、

話していることは理解できない、

そんな瞬間があるはずだ。

これは耳の意識が停止したことを意味する。

目の前にある物の輪郭が見えていても、

細かいところが見えなくなれば、

目の意識が停止したしるしである。

 

同様のことが嗅覚、味覚、触覚におこる。

五感が十分に機能しなくなったのが、

溶解のプロセスの最初の段階のしるしである。

地水火風の四大元素の溶解のプロセスがそれにつづく。

 

〈地の元素〉

身体からすべての力がぬける。

エネルギーが枯渇するのだ。

身体を起こすことも、

姿勢をまっすぐにすることも、

何かを握ることもできなくなる。

身体が地面のなかに沈みこむか、

おちこむような、

あるいは重たいものの下敷きになっているような感じがする。

どんな姿勢をとっても重苦しく不快である。

身体を起こしてもらったり、

枕を高くしてもらったり、

掛け布団をとってくれと頼むようになる。

血の気が引き、

肌の色は蒼ざめる。

頬はこけ、歯には汚れが現れる。

まばたきをするのでさえ難しくなる。

物質の集まり(色蘊)、

つまり肉体の物質的要素が溶解していくと、

死にゆく人は脆弱になる。

心は散漫になり、

いらざる妄念がわくが、

そのうち心は暗く沈みこんでゆく。

 

これらはすべて地の元素が水の元素に溶解していくしるしである。

つまり地の元素と関連していた〈風〉が意識の基盤となる力を失い、

逆に水の元素の力が増すのである。

「秘密のしるし」としては心が陽炎のような顕れを見る。

 

〈水の元素〉

体内の液体分をコントロールする力を失いはじめる。

鼻水やよだれ、目やにが出、失禁する。

眼窩に乾いていくような感じがあり、

唇は血の気を失い、

まくれあがる。

口と喉はねとつき、

つかえる感じがする。

鼻孔はおちこみ、

ひどく喉がかわく。

身体が震え、痙攣がおこる。

死の匂いがわたしたちの上に覆いかぶさる。

感受作用の集まりである受蘊が溶解すると、

苦しみや快感が、

熱さや冷たさといった肉体的な感覚が、

交互に衰えていく。

心はいらだち、神経過敏になり、欲求不満になると同時に、

雲がかかったように薄ぼんやりした状態におちこむ。

人によっては「大海に溺れたかのよう」とか、

「大河に押し流されたかのよう」といった表現をする者もいる。

水の元素は火の元素に溶解してゆく。

意識の支えとなっていた水の元素の力を火の元素が引き受けるのである。

「秘密のしるし」としては煙がたちのぼるような顕れを見る。

 

〈火の元素〉

この段階までくると、口も鼻も完全に乾ききってしまう。

肉体の温かみも、普通は四肢から心臓へと逃げていく。

頭頂から温かい陽気のようなものがたちのぼることもある。

鼻や口を通りすぎる息は冷たく、

なにかを飲むこともできなければ、

消化することもできない。

表象作用の集まりである想蘊が溶解すると、

わたしたちの心は混乱したかとおもうとはっきりするという状態を繰り返す。

家族や友人の名前も思い出せなくなり、

相手をそれと認識することさえできなくなる。

見るもの聞くものすべてが混乱した状態にあるため、

外にあるものを知覚するのが難しくなっていく。......

火の元素が風の元素に溶解し、

意識の基盤として機能することがなくなると、

風の元素の力が表立って現れるようになる。

秘密のしるしとしては焚火の上で踊る、

蛍の姿にも似た赤い火花を見る。

 

〈風の元素〉

この段階にいたると呼吸をするのさえひどく難しくなってくる。

まるで息が喉からもれだしているようで、

ゼイゼイとあえぐようになる。

吸気は短く、困難をともなう。

逆に呼気は長くなる。

眼球は上を向いてしまい、

身体はまったく動かせなくなる。

意志的形成作用の集まり、

つまり行蘊が溶解すると、

心は戸惑い、

外の世界を認知できなくなり、

すべてが朦朧となる。

物理的環境との最後の接触感が奪われる。

ここで幻覚やヴィジョンが現れはじめる。

生きている間、

悪行を積み重ねてきた者は、

恐るべき姿形を目にする。

今世の忘れがたい恐怖の瞬間が再現され、

人は怯えのあまり絶叫せんばかりになる。

逆に慈悲深い、

思いやりのある人生をおくってきた人間は、

神々しくも至福のヴィジョンを目にし、

仲のよかった友人たちや覚者に「出会う」。

よき人生を歩んできた者にとっては、

死は恐怖ではなく平安である。......

風の元素が意識に溶解するのはこの時である。

身体中の〈風〉はすでに心臓部の生命を司る風に収斂している。

秘密のしるしとしては、

死にゆく人は灯明か松明の、

赤い煌々たる炎のような顕れを見る。

吸気はますます浅くなり、

それに反比例して呼気が長くなる。

この時点で、血が収束して、

心臓部の中央の生命の脈管に入る。

三滴の血が、一滴また一滴と入って行くと、

死にゆく人は、三回長く息を吐き出す。

そして不意に呼吸がとまる。

生きているきざしは一切なく、

心臓部だけかすかな温かみが残っている。

現代医学ならこの時点をもって「死亡した」と判定を下すだろう。

しかしチベット仏教の師たちは、

この先まだ内なるプロセスが残っていると主張する。

呼吸が絶えてから、〈内なる息〉が絶えるまでには、

「食事をとれるくらいの時間」がある、

つまりおよそ二十分の差があるとされている。

もっともこれも確実とはいえず、

このプロセスはきわめて早く展開する場合もある。

 

◎内なる溶解

内なる溶解のプロセスにおいては粗い概念と微細な概念と煩悩が溶解し、

四段階のより微細なレベルの意識と出会うことになる。

死のプロセスは受胎のプロセスを逆行したものとなる。

両親の精子卵子が合体すると、

カルマに駆り立てられるままにわたしたちの意識はそのなかに入る。

胎児が成長していく間に、

父の精髄である「白い至福(大楽)」の心滴は中央脈管の先端、

頭頂部のチャクラに位置するようになる。

母の精髄である「赤く熱い」心滴は、

臍下、指幅四本分のところにあるチャクラに位置するようになる。

溶解の次なる過程は、

この二つの心滴から展開される。

 

支えとなっていた〈風〉が消え失せたため、

父から受け継いだ白い心滴は、

中央脈管を下って心臓部にまで下りてくる。

この時、外なるしるしとしては、

「月光が皓々と輝く澄みわたった空」を思わせる

「真っ白な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

怒りより生じた三十三の概念的思考が滅する。

この段階は〈顕現〉と呼ばれる。

次に母の精髄が、

それを臍下にとどめていた〈風〉が消え失せたため、

中央脈管を上に登りはじめる。

この時、外なるしるしとしては、

「澄みわたった空に太陽が輝くような真っ赤な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

貪りより生じた四十の概念的思考が滅するため、

至福の境地を体験する。

この段階は〈顕現増広〉と呼ばれる。

白い精髄と赤い精髄が心臓部で出会うと、

意識はその間に挟まれ、

気絶したも同然になる。

......外なるしるしとしては

「真っ暗な闇に広がるからっぽの空」のような

「真っ黒な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

無知に起因する七つの概念的思考が滅し、

一切の概念から解放された心の状態を体験する。

この段階は〈顕現近得〉と呼ばれる。

 

チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)

 

◎第一の光明――根源の光明の顕現

この「死のプロセス」は、

わたしたちが生誕するプロセスをさかのぼっていく、

つまり魂の原初の状態に戻っていく過程を表わしているとされる。

 

そのため、この死のプロセスの後、

わたしたちの前には「死の光明の心」といわれる魂の根源から発される、

けがれの一切ない澄みわたった空のごとき光が立ち現われることになる。

この光明こそ、わたしたち(魂)の真の姿にほかならない、という。

 

つまり、今わたしたちが肉体を持って生存しているという状態は、

魂の本来の姿ではなく、

あくまでも無常の世界をさまよう仮の姿にすぎない、

と仏教ではとらえている。

そして、この心の本性である光に融けこむこと、

心の本性である根源の光に立ち返ることこそが解脱であり、

仏教の最終の目標とされている。

わかりやすく言い換えると、

仏教の目的「解脱」とは、

魂のふるさとへと帰還することにほかならないというのだ。

もし、死のプロセスにおいて経験する魂の根源の光に没入することができるなら、

それはまさに最高と言えるだろう。

しかし、一般の人にはそれは不可能とされている。

心が過去の煩悩的経験に束縛された状態にあるため、

その光に対して恐怖し、解脱の機会を逃してしまうのだという。

 

死の瞬間にたちのぼる根源の光明は解脱へのまたとない機会である。

ならば、いかなる条件がそろえば、

こうした機会をとらえられるかを知っておく必要があろう。....

光明はわたしたちすべてにおのずと提示されているが、

大部分の人はその赤裸々な単純さのなかにある、

微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの備えができていない。

大半の人々は生存中に光明を認識する方法に馴染んでこなかったため、

それを認識するための手段を有しておらず、

たとえ光明がたちのぼっても、

過去の怖れや習慣や条件づけ、

つまり古い条件反射にしたがって本能的に反応するしかない。

光明がたちのぼるには、

まず煩悩が断たれていなければならないが、

わたしたちの通常の心の奥底には

過去の潜在力や習癖が隠れたまま残っている。

死とともに心の惑乱は断たれ、

それとともに光明が解き放たれるが、

怖れと無知ゆえに人は萎縮し、

執着へとすがりつく。

そのために人はこのきわめて強力な瞬間を解脱の機会として利用できずにいる。

パドマサンバヴァはこう述べる。

「生きとし生けるものはすべて数えきれない回数、

死しては生まれ変わってきている。

彼らはこの名状しがたい光明を幾度となく

体験しているにもかかわらず、

無知の闇に妨げられて、

無限の輪廻を果てしなく彷徨っている」

 

では、この光明を体験する期間はどれくらいなのだろうか。

それは、その人が生前に修行を積んだかどうかで大きく異なるという。

さて根源の光明がたちのぼる。

修行者が惑うことなく心の本質にとどまるかぎり、

この光明の状態は続く。

しかし、大部分の人々にとってこれは指を鳴らす瞬間に終わっている。

またある者には、

師たちが言うように「食事を摂るほどの時間」続く。

ほとんどの人々は根源の光明を認識できず、

無意識の状態に投げ込まれてしまう。

この状態は三日半続き、

最後に肉体から意識が離れる。

 

そしてこの根源の光の体験こそ、

第一のバルドである「チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)」の現象なのである。

 

◎第二の光明――空が光に溶けこむ

第一の光明の体験が終わった後、

そこに溶けこめなかった魂の前には、

第二の光明が出現する。

「空が光に溶けこむ」といわれている段階に入るわけだ。

 

この第二の光明はとてもまぶしい透明光で、

もしそこに融け込むことができるなら、

無色界と呼ばれる、

光で構成された素晴らしい世界へと転生することになる。

そこでは光の身体を有し、

人間の感覚からいって、

まさに「無限の時」を幸福・喜に包まれて生存することができるのだ。

 

このチカー・バルドで済度されるためには、

生前に完璧な真の宗教心を培った人でないと難しいとされている。

 

なお、この第二の光明は、

本によっては次のチューニー・バルドに属するものとして

表現されているものもある。

 

あなたは突如として音響、色彩、光の充満した世界に気づく。

馴染んできた環境はその凡庸な表情を捨て、

光溢れる光景に溶けこんでいく。

これは透明にして清澄、

絢爛たる色にあふれ、

いかなる次元、

いかなる方角にも制限されることなく、

絶えず輝きながら動いている。

チベット死者の書』はこの状態を

「夏の暑さで平原に陽炎がたちのぼるよう」と表現する。

 

チューニー・バルド(心の本体のバルド)

 

◎神々との融合

次にやってくるバルドはチューニー・バルドである。

その初めに「光が融合へ溶けこむ」といわれる段階がやってくる。

そこでは、光がさまざまな大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとり、

それぞれの持ち物を携えて現われるという。

仏や菩薩たちは目もくらむばかりの光を放ち、

何千もの雷鳴がとどろくような音がするのだ。

『バルド・トゥドゥル』には、

四十二の寂静尊と五十二の念怒尊が描写されている。

これらの仏や菩薩は、

わたしたちの中にある崇高な意識の現われであり、

それらの誘いに身を任すなら、

六道輪廻の牢獄から解放され、

無色界に次ぐ素晴らしい世界=色界へと転生できるとされている。

 

第三の光明は、

すさまじい音響をともなった色彩の洪水と眩しい光によって、

最後には死者を失神させてしまいます。

いよいよ死後のバルドでの試練が始まるのです。

この失神から、死者は必ず四日目には目を覚まします。

この日から十四日間にわたって、

七つの幻影が必ず強烈な光と弱い光の

二組みのセットとして現われてきます。

最初の一週間は平和で慈愛あふれる寂静尊として、

後半の七日間は恐ろしい悪夢のような姿の念怒尊が主役です。

このバルドでは、チカエ・バルドで解脱できなかった死者が、

覚りを実現するための課題は何かを象徴しているようです。

二組みの光は、現象界のつかのまの相と永遠の相を表わし、

死後の今こそ、それを見分けるときである。

さらに、その永遠の相は決して外の世界にあるのではなく、

自分の意識のなかに存在するとさまざまな教えで説いているのです。

河邑厚徳・林由香里『チベット死者の書」)

 

智慧の出現

神々との融合の段階をとらえることができなかったならば、

「融合が智慧に溶けこむ」という段階に入る。

心臓から幾筋もの光の筋がほとばしり出、

巨大なヴィジョンが出現する。

これは下から順に次のような形で顕われてくる。

 

・紺色の光の絨毯の上に、瑠璃色の心滴が五組ずつ

・白い光の絨毯の上に、水晶のような輝く心滴

・黄色い光の絨毯の上に、黄金の心滴

・赤い光の絨毯の上に、ルビーのように赤い心滴

 

これは五智のうち

法界智、大円鏡智、平等性智、妙観察智

の四つの現れであるという。

悟りを得たときに完成される成所作智の緑色だけは現われていない。

 

◎すべてのリアリティのヴィジョン

ここでも心の本質にとどまることに失敗したならば、

今度はすべてのリアリティがすさまじいまでの現出を見せるという。

 

まず、本源の清浄さが、

雲もないからっぽの空のようにたちのぼる。

次に寂静と忿怒の神々、

続いて仏の浄土を上に輪廻の六つの世界が現われる。

こうしたヴィジョンの広がりはわたしたちの想像をまったく超えている。

智慧や解脱から惑乱や再生にいたるまでのすべての可能性が提示される。

この時点であなたは透視力や過去や未来を見通す力を得たことに気づく。

こうした顕現を自らの明知から放たれた輝きそのものであると

確実に認識できたならば、あなたは解脱を得ることができる。

 

しかし、特殊な修行体験なくしては、

仏たちのヴィジョンさえも眼にすることなく、

六道輪廻の世界に引きずられてしまう。

そうして、次のバルドが始まる。

 

スィパ・バルド(再生のバルド)

チューニー・バルドでも済度されなかった魂は、

ついに再生のバルドであるスィパ・バルドに落ちることになる。

スィパ・バルドでの”現われ”は、

光から次第に具体的なイメージやヴィジョンへと移り変わっていく。

 

大半の人にとって、

内なる溶解の三段階は「指を三回弾くほどの長さ」

といわれるほど速やかにすぎてしまい、

そのまま意識を失う。

そして、気がついたときには再生に向かう第三のバルドに入っているのである。

 

シパ・バルドは死から三週間がたって始まります。

シパ・バルドを導く基本原理は、

自分自身のさまざまな行為や考えによって、

意識のなかに印象づけられた業(カルマ)です。

.....

再生のバルドでは、

死者の意識は吹き荒ぶカルマの風に追い立てられ、

鳥の羽が風に、

運ばれるように、

翻弄されてしまうのです。

再生のバルドの世界は、

夜も昼もなく「秋の薄暮れ時の灰色の明り」が、

解脱できない限り死後四十九日までつづきます。

河邑厚徳・林由香里「チベット死者の書」)

 

この段階に入ると、

前生における行為(カルマ=業)がはっきりと表面化してくるようになる。

生前、善い行ないが多ければ、

バルドでのさまざまな知覚や体験は

至福と幸福感が入り混じったものになるだろうし、

生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、

バルドでの知覚や体験は、

恐怖や苦渋に満ちたものになるのだ。

 

わたしたちはカルマの風に追い立てられ、

拠り所にすべき基盤をもたない。

チベット死者の書』は「この時、恐るべき、

耐えがたいまでのカルマの大嵐があなたを後から追い立てる」と表現する。

恐怖に呑みつくされたあなたは、

タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、

バルドの薄暗がりのなかでなすすべもなく彷徨う。

 

◎意成身を得る

このバルドでは、死者は新たな身体を手に入れる。

これは意成身とか意識身と訳されるものである。

 

さらに、このバルドでは死者の意識は、

新たな身体を持つようになっています。

この身体は物質でできた肉体ではなく、

死者の意識によってできあがった”意識身”と呼ばれ、

自由自在に空間を移動することのできる神通力を備えていると書かれています。

 

意識身はこの世の三次元的な制約がなく、

すべての感覚を完全に備え、

どんな物質もすりぬけられます。

意識身同士は透視眼によって互いに見ることができますが、

生きている人からは見えない身体、

いわゆるゴーストの状態になっています。

.....

死者の意識は、このような身体をもって自由に移動できるために、

ちょうど夢のなかでのようにさまざまな人に会うことができます。

自分の肉親にも会うことができるのですが、

話しかけても返事はないし、

彼らの泣いている姿を見て

「むきだしで熱い砂の上におかれた魚」のように

激しい苦痛に苛まれるのです。

このように現世への執着をもつことが、

解脱を妨げ再生へ向かう罠になると説いています。

河邑厚徳・林由香里『チベット死者の書」)

 

◎審判

なお、このバルドでは、閻魔王による裁きに遭遇し、

その後転生していく場面が見られることもある。

 

◎再生のヴィジョン

カルマの風に翻弄され、

なすすべもなくバルドの中をさまよい続けたのち、

わたしたちは、自分のカルマに合ったイメージやヴィジョンに感応し、

無意識のうちにそこへと飛び込んでいく。

そして、六道のいずれかの世界へと生まれ変わってしまうのである。

生まれ変わりの時期が近づくと、

あなたは物質的な肉体という拠り所をさらに熱望するようになり、

再生を可能にしてくれる誰かを探しはじめる。

さまざまなしるしが現れ、

輪廻のどの世界にあなたが転生する可能性があるか予告が発せられる。

六道輪廻世界のそれぞれから異なる色合いの光が放たれ、

あなたはそのどれかに引きつけられるのを感じる。

どの光に引きつけられるかは、

どの煩悩が強いかによる。

いったんこうした光に引きよせられたら、

後戻りするのは難しい。

異なる輪廻世界に繋がるさまざまなイメージやヴィジョンがたちのぼる。

あなたが教えに馴染んでいたなら、

その真の意味するところにもっと注意するに違いない。

そのしるしは教えによって微妙に異なっている。

一説に、もしあなたが天界に転生するなら何層もある神々しい宮殿のヴィジョンを、

阿修羅界に転生するなら旋回する炎の円形の武器の真ん中にいるような、

戦場に入っていくようなヴィジョンを、

畜生界に転生するなら洞窟や地面の穴か

藁の巣にいるようなヴィジョンを、

餓鬼界に転生するなら、

切り株や、深い森、織られた布といった

ヴィジョンを見るといわれる。

また、地獄に転生するなら、

なすすべもなく黒い穴に落ち込んだり、

黒い道を下って行ったり、

黒い家赤い家のある陰気な土地や、

鉄の町に入って行くヴィジョンを見る。

.....

この段階では、転生への欲求に駆り立てられるあまり、

なにがしかの安全を提供してくれそうにみえる場所なら

どこにでも逃げ込んでしまう危険性が大である、

と教えは警告する。

望みがかなえられなければあなたは怒りを覚える。

それがバルドに終わりをもたらし、

あなたは悪しき煩悩の流れによって次なる生へと押し流されていく。

このようにあなたの来世は、

怒り、貪り、無知によって直接決定づけられるのである。

 

では、人間界に生まれ変わる場合はどうだろうか。

言い換えるなら、あなたは今、人間として生まれてきたわけだが、

その転生の直前のバルドでの経験は、

おおむね以下のとおりであったと考えていいかもしれない。

 

カルマの風に押し流されて、

あなたは将来の両親が交わっている場面にやってくる。

二人の姿を見て、あなたは感情的に引きつけられるものを感じる。

ここでは過去のカルマ的結びつきによって、

強い愛着か嫌悪の念がおのずと生まれる。

母親に欲望と愛着を、

父親に嫉妬と嫌悪を覚えるならば男の子に、

逆なら女の子に生まれ変わるだろう。

 

誕生

 

こうして生まれ変わる世界が決まったら、

再び現世の自然なバルド(本有)に生まれ変わることになる。

ここでは死のときと同様に、

溶解のプロセスの兆候と、

根源の光明を再体験する。

そして、真っ黒な顕われが立ち現われ、

新しい子宮とのつながりが形成されるのである。

 

 

13 チベットの死者の書に描かれた死後の世界

 

死者の書」は何を語っているか

 

古代の叡智が結集した「死者の書

 

臨終から死後の世界への移行のプロセス、

そしてそのときの対処法などを記したものに、

死者の書」と呼ばれるものがある。

すでに紹介した『エジプト死者の書』、

キリスト教死者の書とでも呼ぶべき

『アルス・モリエンディ』冊子群のほかにも、

様々なものが存在している。

 

死や臨終の問題に特に専念している

古代のテクストは、

ふつう「死者の書」と呼び慣らわされている。

最古のテクストはいわゆる

『エジプト死者の書』である。

それは、『ペル・エ ム・フル』と呼ばれる

文献集から編まれた、

古代エジプトパピルス文書の集成であり、

「光の中への出現」もしくは「日の中への出現」と訳されている。

このような文書の中で最も有名なものといえば、

おそらく『チベット死者の書』であろう。

これは『バルド・トェドル』あるいは

「死後の段階の聴聞による解脱」

という名で知られている。

 

中央アメリカには、『マヤの死者の書』がある。

これは、いわゆる陶製写本と称される

、葬儀用の壷に記された絵画や聖句から

改めて作成されたものである。

同書に匹敵するものとしては、

折りたたみ式の絵文書(コデクス) として遺された

トルテカ人とアステカ人の文献がある。

 

さらに、『往生術(アルス・モリエンディ)』として知られる、

中世ヨーロッパの死に関する一連の文献を加えることができよう。

 

古代の「死者の書」に初めて西洋の学者が注目するようになったとき、

彼らはそれを霊魂 の死後の旅を架空の物語に仕立てたもの、

あるいは、死という厳しい現実を受け入れることのできない人々が

希望を託して捏造したものにすぎないと考えた。

おとぎ話――

日々の生活と関わりのない、

まったく麗しい幻想による創作物

――と同じカテゴリーに入れていたのだ。

 

しかし、これらのテクストをより深く研究していくにつれ、

聖なる神秘と霊性の修行を背景にした手引きとして用いられ、

....修行者の体験を記してきたことが明らかになったのである。....

 

非日常的な意識状態に焦点を絞った現代の研究によって、

この問題領域に思いがけず新たな知見がもたらされた。

幻覚剤(サイケデリック) セッション、

薬物を使用しない強烈な心理療法(サイコセラピー)、

また自発的に起こる心理=精神的な危機体験に関する組織的な研究によって、

これらすべての状況においては、

あらゆる途方もない体験をすることが可能であると証明された。

そこでは、苦悶と死、

地獄巡り、

神の審判への直面、

再生、

天界への到達、

前生の記憶の甦りといった

一連の場面が体験されているのである。

.....

さらに、死生学(サナトロジー)における臨死体験についての研究では、

生命の危機に瀕した状況と関わる体験は、

幻覚剤セッションや現代の実験的な心理療法の中で

被験者が伝えた報告はもちろん、

古代の「死者の書」の記述ともきわめて似通っていることが証明されたのである。

実際、これらのテクストは、

人が非日常的な深層の意識状態において遭遇した、

霊魂=精神の奥深い領域の地図であることが明らかになってきたのである。

 

バルド・トゥドゥル (チベット死者の書)

 

チベット死者の書』は一九二七年に初めて英語に翻訳され、

それ以来、西洋の心理学者、作家、哲学者たちのあいだで高い関心を呼び、

また相当の部数をあげてきてもいる。

 

チベット死者の書』という書名は、

翻訳者であるアメリカの学者W・Y・エヴァンス・ ヴェンツが、

有名な(そして同様に間違った書名をつけられた)

『エジプトの死者の書』にならってつけた書名である。

正しくは「バルド・トゥドゥル・チェンモ』といい、

バルド(中有)における聴聞による大いなる解脱」を意味する。

(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』)

 

死者の書」の中でも最もポピュラーなのが、

『バルド・トゥドゥル(チベット死者の書)』だろう。

『バルド・トゥドゥル』は、

チベット仏教に伝承されている死者の道案内をするための経典だ。

 

チベット仏教では、

今まさに死を迎えようとしている人の枕元に僧侶が座り、

耳元で声に出してこの経典を読み聞かせていく。

そして死んだ後、四十九日の間、毎日休むことなく

――途中、死体が荼毘に付されても――

死者に向けて『バルド・トゥドゥル』は読まれるのである。

日本でも「四十九日」という言葉だけは残っているが、

これは仏教的に言えば、魂が死後、

次の再生へ向けて「バルド」と呼ばれる世界でさまざまな経験をする、

その最長の期間を表わしている。

つまり、だれでも死んだ後は、

四十九日以内にはバルドを通過して、

どこかの世界へと転生していくというわけだ。

 

バルド=中有という言葉

 

バルドについてのチベットでの考え方については、

ソギャル・リンポチェの解説がわかりやすいので、

そのまま引用することにしよう。

 

〈バルド〉 はチベット語である。単に「移行」、

あるいはひとつの状態が完了し

別の状況が始まるまでのあいだの間隙を意味する。

〈バル〉は「中間」を意味し、

〈ド〉は「宙ぶらりんの」あるいは「投げ出された」を意味する。

チベット死者の書』の流行とともに知られるようになった言葉である。

.....

チベット死者の書』の流行のせいで、

人はバルドという言葉から死を連想するようになった。

バルドという言葉が、

チベット人の日常の会話のなかで

死と再生のあいだの中間状態を指してもちいられるのは事実だが、

この言葉は実はもっと広く深い意味を持っているのである。

.....

わたしたちの存在のすべては、

生、死にゆくことと死、死後、再生の

四つの現実に分けることができる。

これが〈四つのバルド〉である。

 

1 現世の自然なバルド(本有)

誕生から死までの期間。

2 死の”苦痛に満ちた”バルド

死のプロセスの始まりから、〈内なる息〉が絶える瞬間まで。

3 法性の”光り輝く”バルド

音と色と光による心の本質の輝きの体験、光明の死後体験。

4 再生の『カルマによってひきおこされる、バルド(中有)

新たな誕生の瞬間まで。一般に言われているいわゆるバルド。

 

これらすべてがバルド、つまり「移行」なのだという。

死んでから生まれ変わるまでに移行状態を経験するというのはわかりやすいが、

この誕生から死までの期間もまた、

同じように移行期間にすぎないというのだ。

「考えてみればわかることだが、

私たちのカルマの歴史の気の遠くなるような長さに比べれば、

この生で過ごす時間など実に短い移行にすぎないのだ」

とソギャル・リンポチェは述べる。

 

苦しみ多き輪廻の世界

ここで注意しておかなければならないことがある。

仏教の教えは、輪廻転生を大前提に置いてはいるが、

それを「よいもの」として肯定しているわけではない、

ということだ。

特に、小乗と呼ばれる仏教ではそれが顕著である。

 

つまり、輪廻の輪から脱却(解脱)してより高い世界へ至るか、

「涅槃」といわれる絶対寂静の境地に至ることが

その目的とされているのである。

なぜなら、輪廻の輪の中にとどまる限り、

わたしたちは無限の時を苦しみながら生き続けなくてはならないからだ。

 

なぜ苦しみながら、なのだろうか。

それは、六道輪廻説では、

人間の世界だけでなく、

畜生・餓鬼・地獄といった苦しみが大半を占める世界へも転生し、

そしてそこに一度落ちようものなら、

想像もできないような長きにわたる期間、

抜け出すことができないという。

輪廻の輪の中にとどまる限り、

そうした世界への転生は避けられないのである。

 

そのため、チベット死者の書には二つの目的があるといってもいい。

一つの目的は、

誤った(苦しみ多き世界への)輪廻転生をしないために、

できるだけ幸福な世界に生まれ変われるように。

もう一つの、最高の目的は、

輪廻を超えて解脱の境地へと至るために。

これらの目的のために、

死者の魂に向けて『バルド・トゥドゥル』は読み続けられるのである。