死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

14 『チベット死者の書』が説く輪廻転生のプロセス

輪廻転生の全プロセス

 

チベット死者の書によると、

わたしたちの死から新しい生へのプロセス、

つまり、輪廻転生の過程は次のようになる。

 

0【現世の自然なバルド】

○死のプロセス

・外なる溶解(五感と四大元素が溶解する)→現代医学的な死

・内なる溶解(概念的思考や煩悩が溶解する)

・顕現(真っ白な顕われ)

・顕現増広(真っ赤な顕われ)

・顕現近得(真っ黒な顕われ)

 

1【死の苦痛に満ちた、バルド】

チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)

○根源の光明の出現

○空が光に溶けこむ

 

2【法性の光り輝く、バルド】

チューニー・バルド(心の本体のバルド)

○光が融合へ溶けこむ

○融合が智慧に溶けこむ

智慧が自然の存在に溶けこむ

 

スィパ・バルド(再生のバルド)

○意成身を得る

○審判

○再生のヴィジョン

 

4【現世の自然なバルド】

○誕生

 

死の三つのバルド

 

死のバルドは

チカー・バルド、

チューニー・バルド、

スィパ・バルド

の三段階があるが、

これは、仏教の宇宙観にある「三界」に対応し、

それぞれの世界を経験するバルドであると説かれている。

三界とは、欲界・色界・無色界の三つを指す。

 

1欲界

いわゆる六道

――地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天――

が展開されている。

わたしたちは、現在、この欲界にある人間界に生存しているのである。

一般に言う輪廻転生の世界は、

この欲界の範囲内を指し、

この世界から脱却することが仏教の目的の一つとされていることは、

先に説明したとおりである。

スィパ・バルドで経験する。

 

2色界

欲界よりも微細な世界で、

波動やイメージでできた世界である。

ここには欲界よりも崇高な、

大変美しい容姿をした神々の世界が展開されているという。

チューニー・バルドで経験する。

 

3無色界

光がその主要素になっている世界で、

欲界・色界よりもさらに崇高な境地が展開されている。

チカー・バルドで経験する。

 

それでは、それぞれのプロセスをもう少し詳しく見ていこう。

以下、特に断らない限り、

引用はソギャル・リンポチェ著『チベットの生と死の書』からである。

 

死のプロセス

 

わたしたちは、死んだらどのような体験をするのだろうか。

チベット仏教の教えによると、

まず「死のプロセス」を経験する。

それは、外なる溶解と内なる溶解のプロセスが来るとされている。

 

・外なる溶解

(1)五感が衰えていく。

(2)地の元素が溶解......固体成分の溶解。物理的身体が衰えていく。

(3)水の元素が溶解......液体成分の溶解。感受作用が衰えていく。

(4)火の元素が溶解......体温(熱成分)の溶解。表象作用が崩れていく。

(5)風の元素が溶解......呼吸の溶解。意志的形成作用が崩れていく。

(6)意識はしばらく心臓にとどまる

 

・内なる溶解

(7)白い顕れが下りてくる......怒りから生じる思考の消滅

(8)赤い顕れが登ってくる......貪りから生じる思考の消滅

(9)真っ黒な顕れを見る......無智から生じる思考の消滅

 

◎外なる溶解のプロセス――五感と四大元素

外なる溶解のプロセスにおいては、五感と四大元素が溶解する。

わたしたちは死ぬとき、

正確にはいかなる体験をしているのであろうか?

最初に気づくのは、五感の機能が停止していくことだ。

自分のベッドのまわりで人々が話している。

声は聞こえているのだが、

話していることは理解できない、

そんな瞬間があるはずだ。

これは耳の意識が停止したことを意味する。

目の前にある物の輪郭が見えていても、

細かいところが見えなくなれば、

目の意識が停止したしるしである。

 

同様のことが嗅覚、味覚、触覚におこる。

五感が十分に機能しなくなったのが、

溶解のプロセスの最初の段階のしるしである。

地水火風の四大元素の溶解のプロセスがそれにつづく。

 

〈地の元素〉

身体からすべての力がぬける。

エネルギーが枯渇するのだ。

身体を起こすことも、

姿勢をまっすぐにすることも、

何かを握ることもできなくなる。

身体が地面のなかに沈みこむか、

おちこむような、

あるいは重たいものの下敷きになっているような感じがする。

どんな姿勢をとっても重苦しく不快である。

身体を起こしてもらったり、

枕を高くしてもらったり、

掛け布団をとってくれと頼むようになる。

血の気が引き、

肌の色は蒼ざめる。

頬はこけ、歯には汚れが現れる。

まばたきをするのでさえ難しくなる。

物質の集まり(色蘊)、

つまり肉体の物質的要素が溶解していくと、

死にゆく人は脆弱になる。

心は散漫になり、

いらざる妄念がわくが、

そのうち心は暗く沈みこんでゆく。

 

これらはすべて地の元素が水の元素に溶解していくしるしである。

つまり地の元素と関連していた〈風〉が意識の基盤となる力を失い、

逆に水の元素の力が増すのである。

「秘密のしるし」としては心が陽炎のような顕れを見る。

 

〈水の元素〉

体内の液体分をコントロールする力を失いはじめる。

鼻水やよだれ、目やにが出、失禁する。

眼窩に乾いていくような感じがあり、

唇は血の気を失い、

まくれあがる。

口と喉はねとつき、

つかえる感じがする。

鼻孔はおちこみ、

ひどく喉がかわく。

身体が震え、痙攣がおこる。

死の匂いがわたしたちの上に覆いかぶさる。

感受作用の集まりである受蘊が溶解すると、

苦しみや快感が、

熱さや冷たさといった肉体的な感覚が、

交互に衰えていく。

心はいらだち、神経過敏になり、欲求不満になると同時に、

雲がかかったように薄ぼんやりした状態におちこむ。

人によっては「大海に溺れたかのよう」とか、

「大河に押し流されたかのよう」といった表現をする者もいる。

水の元素は火の元素に溶解してゆく。

意識の支えとなっていた水の元素の力を火の元素が引き受けるのである。

「秘密のしるし」としては煙がたちのぼるような顕れを見る。

 

〈火の元素〉

この段階までくると、口も鼻も完全に乾ききってしまう。

肉体の温かみも、普通は四肢から心臓へと逃げていく。

頭頂から温かい陽気のようなものがたちのぼることもある。

鼻や口を通りすぎる息は冷たく、

なにかを飲むこともできなければ、

消化することもできない。

表象作用の集まりである想蘊が溶解すると、

わたしたちの心は混乱したかとおもうとはっきりするという状態を繰り返す。

家族や友人の名前も思い出せなくなり、

相手をそれと認識することさえできなくなる。

見るもの聞くものすべてが混乱した状態にあるため、

外にあるものを知覚するのが難しくなっていく。......

火の元素が風の元素に溶解し、

意識の基盤として機能することがなくなると、

風の元素の力が表立って現れるようになる。

秘密のしるしとしては焚火の上で踊る、

蛍の姿にも似た赤い火花を見る。

 

〈風の元素〉

この段階にいたると呼吸をするのさえひどく難しくなってくる。

まるで息が喉からもれだしているようで、

ゼイゼイとあえぐようになる。

吸気は短く、困難をともなう。

逆に呼気は長くなる。

眼球は上を向いてしまい、

身体はまったく動かせなくなる。

意志的形成作用の集まり、

つまり行蘊が溶解すると、

心は戸惑い、

外の世界を認知できなくなり、

すべてが朦朧となる。

物理的環境との最後の接触感が奪われる。

ここで幻覚やヴィジョンが現れはじめる。

生きている間、

悪行を積み重ねてきた者は、

恐るべき姿形を目にする。

今世の忘れがたい恐怖の瞬間が再現され、

人は怯えのあまり絶叫せんばかりになる。

逆に慈悲深い、

思いやりのある人生をおくってきた人間は、

神々しくも至福のヴィジョンを目にし、

仲のよかった友人たちや覚者に「出会う」。

よき人生を歩んできた者にとっては、

死は恐怖ではなく平安である。......

風の元素が意識に溶解するのはこの時である。

身体中の〈風〉はすでに心臓部の生命を司る風に収斂している。

秘密のしるしとしては、

死にゆく人は灯明か松明の、

赤い煌々たる炎のような顕れを見る。

吸気はますます浅くなり、

それに反比例して呼気が長くなる。

この時点で、血が収束して、

心臓部の中央の生命の脈管に入る。

三滴の血が、一滴また一滴と入って行くと、

死にゆく人は、三回長く息を吐き出す。

そして不意に呼吸がとまる。

生きているきざしは一切なく、

心臓部だけかすかな温かみが残っている。

現代医学ならこの時点をもって「死亡した」と判定を下すだろう。

しかしチベット仏教の師たちは、

この先まだ内なるプロセスが残っていると主張する。

呼吸が絶えてから、〈内なる息〉が絶えるまでには、

「食事をとれるくらいの時間」がある、

つまりおよそ二十分の差があるとされている。

もっともこれも確実とはいえず、

このプロセスはきわめて早く展開する場合もある。

 

◎内なる溶解

内なる溶解のプロセスにおいては粗い概念と微細な概念と煩悩が溶解し、

四段階のより微細なレベルの意識と出会うことになる。

死のプロセスは受胎のプロセスを逆行したものとなる。

両親の精子卵子が合体すると、

カルマに駆り立てられるままにわたしたちの意識はそのなかに入る。

胎児が成長していく間に、

父の精髄である「白い至福(大楽)」の心滴は中央脈管の先端、

頭頂部のチャクラに位置するようになる。

母の精髄である「赤く熱い」心滴は、

臍下、指幅四本分のところにあるチャクラに位置するようになる。

溶解の次なる過程は、

この二つの心滴から展開される。

 

支えとなっていた〈風〉が消え失せたため、

父から受け継いだ白い心滴は、

中央脈管を下って心臓部にまで下りてくる。

この時、外なるしるしとしては、

「月光が皓々と輝く澄みわたった空」を思わせる

「真っ白な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

怒りより生じた三十三の概念的思考が滅する。

この段階は〈顕現〉と呼ばれる。

次に母の精髄が、

それを臍下にとどめていた〈風〉が消え失せたため、

中央脈管を上に登りはじめる。

この時、外なるしるしとしては、

「澄みわたった空に太陽が輝くような真っ赤な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

貪りより生じた四十の概念的思考が滅するため、

至福の境地を体験する。

この段階は〈顕現増広〉と呼ばれる。

白い精髄と赤い精髄が心臓部で出会うと、

意識はその間に挟まれ、

気絶したも同然になる。

......外なるしるしとしては

「真っ暗な闇に広がるからっぽの空」のような

「真っ黒な顕れ」を見る。

内なるしるしとしては、

無知に起因する七つの概念的思考が滅し、

一切の概念から解放された心の状態を体験する。

この段階は〈顕現近得〉と呼ばれる。

 

チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)

 

◎第一の光明――根源の光明の顕現

この「死のプロセス」は、

わたしたちが生誕するプロセスをさかのぼっていく、

つまり魂の原初の状態に戻っていく過程を表わしているとされる。

 

そのため、この死のプロセスの後、

わたしたちの前には「死の光明の心」といわれる魂の根源から発される、

けがれの一切ない澄みわたった空のごとき光が立ち現われることになる。

この光明こそ、わたしたち(魂)の真の姿にほかならない、という。

 

つまり、今わたしたちが肉体を持って生存しているという状態は、

魂の本来の姿ではなく、

あくまでも無常の世界をさまよう仮の姿にすぎない、

と仏教ではとらえている。

そして、この心の本性である光に融けこむこと、

心の本性である根源の光に立ち返ることこそが解脱であり、

仏教の最終の目標とされている。

わかりやすく言い換えると、

仏教の目的「解脱」とは、

魂のふるさとへと帰還することにほかならないというのだ。

もし、死のプロセスにおいて経験する魂の根源の光に没入することができるなら、

それはまさに最高と言えるだろう。

しかし、一般の人にはそれは不可能とされている。

心が過去の煩悩的経験に束縛された状態にあるため、

その光に対して恐怖し、解脱の機会を逃してしまうのだという。

 

死の瞬間にたちのぼる根源の光明は解脱へのまたとない機会である。

ならば、いかなる条件がそろえば、

こうした機会をとらえられるかを知っておく必要があろう。....

光明はわたしたちすべてにおのずと提示されているが、

大部分の人はその赤裸々な単純さのなかにある、

微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの備えができていない。

大半の人々は生存中に光明を認識する方法に馴染んでこなかったため、

それを認識するための手段を有しておらず、

たとえ光明がたちのぼっても、

過去の怖れや習慣や条件づけ、

つまり古い条件反射にしたがって本能的に反応するしかない。

光明がたちのぼるには、

まず煩悩が断たれていなければならないが、

わたしたちの通常の心の奥底には

過去の潜在力や習癖が隠れたまま残っている。

死とともに心の惑乱は断たれ、

それとともに光明が解き放たれるが、

怖れと無知ゆえに人は萎縮し、

執着へとすがりつく。

そのために人はこのきわめて強力な瞬間を解脱の機会として利用できずにいる。

パドマサンバヴァはこう述べる。

「生きとし生けるものはすべて数えきれない回数、

死しては生まれ変わってきている。

彼らはこの名状しがたい光明を幾度となく

体験しているにもかかわらず、

無知の闇に妨げられて、

無限の輪廻を果てしなく彷徨っている」

 

では、この光明を体験する期間はどれくらいなのだろうか。

それは、その人が生前に修行を積んだかどうかで大きく異なるという。

さて根源の光明がたちのぼる。

修行者が惑うことなく心の本質にとどまるかぎり、

この光明の状態は続く。

しかし、大部分の人々にとってこれは指を鳴らす瞬間に終わっている。

またある者には、

師たちが言うように「食事を摂るほどの時間」続く。

ほとんどの人々は根源の光明を認識できず、

無意識の状態に投げ込まれてしまう。

この状態は三日半続き、

最後に肉体から意識が離れる。

 

そしてこの根源の光の体験こそ、

第一のバルドである「チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)」の現象なのである。

 

◎第二の光明――空が光に溶けこむ

第一の光明の体験が終わった後、

そこに溶けこめなかった魂の前には、

第二の光明が出現する。

「空が光に溶けこむ」といわれている段階に入るわけだ。

 

この第二の光明はとてもまぶしい透明光で、

もしそこに融け込むことができるなら、

無色界と呼ばれる、

光で構成された素晴らしい世界へと転生することになる。

そこでは光の身体を有し、

人間の感覚からいって、

まさに「無限の時」を幸福・喜に包まれて生存することができるのだ。

 

このチカー・バルドで済度されるためには、

生前に完璧な真の宗教心を培った人でないと難しいとされている。

 

なお、この第二の光明は、

本によっては次のチューニー・バルドに属するものとして

表現されているものもある。

 

あなたは突如として音響、色彩、光の充満した世界に気づく。

馴染んできた環境はその凡庸な表情を捨て、

光溢れる光景に溶けこんでいく。

これは透明にして清澄、

絢爛たる色にあふれ、

いかなる次元、

いかなる方角にも制限されることなく、

絶えず輝きながら動いている。

チベット死者の書』はこの状態を

「夏の暑さで平原に陽炎がたちのぼるよう」と表現する。

 

チューニー・バルド(心の本体のバルド)

 

◎神々との融合

次にやってくるバルドはチューニー・バルドである。

その初めに「光が融合へ溶けこむ」といわれる段階がやってくる。

そこでは、光がさまざまな大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとり、

それぞれの持ち物を携えて現われるという。

仏や菩薩たちは目もくらむばかりの光を放ち、

何千もの雷鳴がとどろくような音がするのだ。

『バルド・トゥドゥル』には、

四十二の寂静尊と五十二の念怒尊が描写されている。

これらの仏や菩薩は、

わたしたちの中にある崇高な意識の現われであり、

それらの誘いに身を任すなら、

六道輪廻の牢獄から解放され、

無色界に次ぐ素晴らしい世界=色界へと転生できるとされている。

 

第三の光明は、

すさまじい音響をともなった色彩の洪水と眩しい光によって、

最後には死者を失神させてしまいます。

いよいよ死後のバルドでの試練が始まるのです。

この失神から、死者は必ず四日目には目を覚まします。

この日から十四日間にわたって、

七つの幻影が必ず強烈な光と弱い光の

二組みのセットとして現われてきます。

最初の一週間は平和で慈愛あふれる寂静尊として、

後半の七日間は恐ろしい悪夢のような姿の念怒尊が主役です。

このバルドでは、チカエ・バルドで解脱できなかった死者が、

覚りを実現するための課題は何かを象徴しているようです。

二組みの光は、現象界のつかのまの相と永遠の相を表わし、

死後の今こそ、それを見分けるときである。

さらに、その永遠の相は決して外の世界にあるのではなく、

自分の意識のなかに存在するとさまざまな教えで説いているのです。

河邑厚徳・林由香里『チベット死者の書」)

 

智慧の出現

神々との融合の段階をとらえることができなかったならば、

「融合が智慧に溶けこむ」という段階に入る。

心臓から幾筋もの光の筋がほとばしり出、

巨大なヴィジョンが出現する。

これは下から順に次のような形で顕われてくる。

 

・紺色の光の絨毯の上に、瑠璃色の心滴が五組ずつ

・白い光の絨毯の上に、水晶のような輝く心滴

・黄色い光の絨毯の上に、黄金の心滴

・赤い光の絨毯の上に、ルビーのように赤い心滴

 

これは五智のうち

法界智、大円鏡智、平等性智、妙観察智

の四つの現れであるという。

悟りを得たときに完成される成所作智の緑色だけは現われていない。

 

◎すべてのリアリティのヴィジョン

ここでも心の本質にとどまることに失敗したならば、

今度はすべてのリアリティがすさまじいまでの現出を見せるという。

 

まず、本源の清浄さが、

雲もないからっぽの空のようにたちのぼる。

次に寂静と忿怒の神々、

続いて仏の浄土を上に輪廻の六つの世界が現われる。

こうしたヴィジョンの広がりはわたしたちの想像をまったく超えている。

智慧や解脱から惑乱や再生にいたるまでのすべての可能性が提示される。

この時点であなたは透視力や過去や未来を見通す力を得たことに気づく。

こうした顕現を自らの明知から放たれた輝きそのものであると

確実に認識できたならば、あなたは解脱を得ることができる。

 

しかし、特殊な修行体験なくしては、

仏たちのヴィジョンさえも眼にすることなく、

六道輪廻の世界に引きずられてしまう。

そうして、次のバルドが始まる。

 

スィパ・バルド(再生のバルド)

チューニー・バルドでも済度されなかった魂は、

ついに再生のバルドであるスィパ・バルドに落ちることになる。

スィパ・バルドでの”現われ”は、

光から次第に具体的なイメージやヴィジョンへと移り変わっていく。

 

大半の人にとって、

内なる溶解の三段階は「指を三回弾くほどの長さ」

といわれるほど速やかにすぎてしまい、

そのまま意識を失う。

そして、気がついたときには再生に向かう第三のバルドに入っているのである。

 

シパ・バルドは死から三週間がたって始まります。

シパ・バルドを導く基本原理は、

自分自身のさまざまな行為や考えによって、

意識のなかに印象づけられた業(カルマ)です。

.....

再生のバルドでは、

死者の意識は吹き荒ぶカルマの風に追い立てられ、

鳥の羽が風に、

運ばれるように、

翻弄されてしまうのです。

再生のバルドの世界は、

夜も昼もなく「秋の薄暮れ時の灰色の明り」が、

解脱できない限り死後四十九日までつづきます。

河邑厚徳・林由香里「チベット死者の書」)

 

この段階に入ると、

前生における行為(カルマ=業)がはっきりと表面化してくるようになる。

生前、善い行ないが多ければ、

バルドでのさまざまな知覚や体験は

至福と幸福感が入り混じったものになるだろうし、

生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、

バルドでの知覚や体験は、

恐怖や苦渋に満ちたものになるのだ。

 

わたしたちはカルマの風に追い立てられ、

拠り所にすべき基盤をもたない。

チベット死者の書』は「この時、恐るべき、

耐えがたいまでのカルマの大嵐があなたを後から追い立てる」と表現する。

恐怖に呑みつくされたあなたは、

タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、

バルドの薄暗がりのなかでなすすべもなく彷徨う。

 

◎意成身を得る

このバルドでは、死者は新たな身体を手に入れる。

これは意成身とか意識身と訳されるものである。

 

さらに、このバルドでは死者の意識は、

新たな身体を持つようになっています。

この身体は物質でできた肉体ではなく、

死者の意識によってできあがった”意識身”と呼ばれ、

自由自在に空間を移動することのできる神通力を備えていると書かれています。

 

意識身はこの世の三次元的な制約がなく、

すべての感覚を完全に備え、

どんな物質もすりぬけられます。

意識身同士は透視眼によって互いに見ることができますが、

生きている人からは見えない身体、

いわゆるゴーストの状態になっています。

.....

死者の意識は、このような身体をもって自由に移動できるために、

ちょうど夢のなかでのようにさまざまな人に会うことができます。

自分の肉親にも会うことができるのですが、

話しかけても返事はないし、

彼らの泣いている姿を見て

「むきだしで熱い砂の上におかれた魚」のように

激しい苦痛に苛まれるのです。

このように現世への執着をもつことが、

解脱を妨げ再生へ向かう罠になると説いています。

河邑厚徳・林由香里『チベット死者の書」)

 

◎審判

なお、このバルドでは、閻魔王による裁きに遭遇し、

その後転生していく場面が見られることもある。

 

◎再生のヴィジョン

カルマの風に翻弄され、

なすすべもなくバルドの中をさまよい続けたのち、

わたしたちは、自分のカルマに合ったイメージやヴィジョンに感応し、

無意識のうちにそこへと飛び込んでいく。

そして、六道のいずれかの世界へと生まれ変わってしまうのである。

生まれ変わりの時期が近づくと、

あなたは物質的な肉体という拠り所をさらに熱望するようになり、

再生を可能にしてくれる誰かを探しはじめる。

さまざまなしるしが現れ、

輪廻のどの世界にあなたが転生する可能性があるか予告が発せられる。

六道輪廻世界のそれぞれから異なる色合いの光が放たれ、

あなたはそのどれかに引きつけられるのを感じる。

どの光に引きつけられるかは、

どの煩悩が強いかによる。

いったんこうした光に引きよせられたら、

後戻りするのは難しい。

異なる輪廻世界に繋がるさまざまなイメージやヴィジョンがたちのぼる。

あなたが教えに馴染んでいたなら、

その真の意味するところにもっと注意するに違いない。

そのしるしは教えによって微妙に異なっている。

一説に、もしあなたが天界に転生するなら何層もある神々しい宮殿のヴィジョンを、

阿修羅界に転生するなら旋回する炎の円形の武器の真ん中にいるような、

戦場に入っていくようなヴィジョンを、

畜生界に転生するなら洞窟や地面の穴か

藁の巣にいるようなヴィジョンを、

餓鬼界に転生するなら、

切り株や、深い森、織られた布といった

ヴィジョンを見るといわれる。

また、地獄に転生するなら、

なすすべもなく黒い穴に落ち込んだり、

黒い道を下って行ったり、

黒い家赤い家のある陰気な土地や、

鉄の町に入って行くヴィジョンを見る。

.....

この段階では、転生への欲求に駆り立てられるあまり、

なにがしかの安全を提供してくれそうにみえる場所なら

どこにでも逃げ込んでしまう危険性が大である、

と教えは警告する。

望みがかなえられなければあなたは怒りを覚える。

それがバルドに終わりをもたらし、

あなたは悪しき煩悩の流れによって次なる生へと押し流されていく。

このようにあなたの来世は、

怒り、貪り、無知によって直接決定づけられるのである。

 

では、人間界に生まれ変わる場合はどうだろうか。

言い換えるなら、あなたは今、人間として生まれてきたわけだが、

その転生の直前のバルドでの経験は、

おおむね以下のとおりであったと考えていいかもしれない。

 

カルマの風に押し流されて、

あなたは将来の両親が交わっている場面にやってくる。

二人の姿を見て、あなたは感情的に引きつけられるものを感じる。

ここでは過去のカルマ的結びつきによって、

強い愛着か嫌悪の念がおのずと生まれる。

母親に欲望と愛着を、

父親に嫉妬と嫌悪を覚えるならば男の子に、

逆なら女の子に生まれ変わるだろう。

 

誕生

 

こうして生まれ変わる世界が決まったら、

再び現世の自然なバルド(本有)に生まれ変わることになる。

ここでは死のときと同様に、

溶解のプロセスの兆候と、

根源の光明を再体験する。

そして、真っ黒な顕われが立ち現われ、

新しい子宮とのつながりが形成されるのである。