死んだらどうなるの?〜死後の世界を考える〜

ここを読んでいるあなたは、今何となく満足した心が生じているかもしれませんが、あなたを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているのではないでしょうか、、、

5 前世の記憶を持つ人たち

死後、魂は新しい生を生きるのか

臨死体験について研究した

レイモンド・ムーディー博士と

エリザベス・キュープラー=ロス博士は、

死後に意識が肉体から遊離していくまでのところについては述べているのだが、

その先のこと、

つまり転生(生まれ変わり)が存在するか否か、

についてまでは研究を進めていない。

 

世界にはさまざまな「死生観」が存在している。

死後も魂や精神、意識が存続するとした場合でも、

二種類に分けることができるだろう。

 

1 死後は「あの世」(天国や地獄、霊界)で永遠の生命を受ける
2 死後は、別の人間・生命体として生まれ変わり、新たな人生を送る

 

つまり、キリスト教を中心とした考え方では、

死者はもはやこの世界に戻ってくることはない。

もう一つの、死者のみの世界に行ってしまって、

そこで永遠に過ごすことになる。

 

一方、仏教やヒンドゥー教を中心とした考え方では、

死者は新たな生を送ることになる。

そこで死ねば、また新たな生を送る、

ということを続けるわけである

 

 

仮に、死後も意識が存続するとして、

転生というものは存在するのだろうか。

それを確かめるには、前世、すなわち、

現在生きている生よりも以前の生があるかないか、

ということを調べる必要がある。

 

現在、欧米を中心として、

純粋な学術的研究、客観的データの収集と分析

という科学的方法による研究が行なわれている。

ここでは、科学者たちによる転生の研究を調べてみるとしよう。

 

証拠として採用できる「前世の記憶」の条件

世の中には「前世の記憶」を持っている人たちがいる。

しかし、その「記憶」というのは、単なる思いこみかもしれない。

前世占い師などの意見を信じるとすれば、

前世が織田信長という人が

現代日本にうじゃうじゃといるようなことになってしまう。

そのようないい加減な思いこみではなく、

何らかの形でその「記憶」がまさに本人のものである

ということが証明されなければならない。

それではじめて、

科学的に「前世が存在する」と言えるのではないだろうか。

 

そこで、このような手順を踏んだ研究が必要になってくる。

 

1 まず前世を記憶していると主張する人から、

前世でどのような生活を送っていたかについて、

詳しく証言を得る。 

 

2 そのあとで、

実際に「前世の家族」と述べられた家族を訪れ、

その証言を得る。 

 

3 場合によっては、本人を同行させて、

前世の家族と対面させて、様子を見る。

 

4 両者の証言が一致しているか、一致していないかを調べる。

 

 つまり、

事前に何ら情報なしに前世の自分についての事実を語れるならば、

それは本人だということだ。

これは犯罪捜査にも似ている。

いくら容疑者本人が「自分が犯人だ」と言ったとしても、

それは誰かをかばっているかもしれない。

そのようなとき、重要視されるのは

「犯人しか知り得ない証言」

があるかどうかということだ。

もし、本物の犯人であれば、

本人だからこそ知っている情報があるはずである。

凶器の隠し場所の自白どおりに凶器が出てきたら、

それは本物の犯人ということになるだろう。

前世の記憶の確認も、

まさに本人でなければ知らないことを

どれだけ説明できるか、という点で、

その前世の記憶がどれだけ正確か

ということを立証できる。

前世が織田信長であると主張する人は、

史書に残されていない何らかの事実を

思い出さなければならないということになる。

 

子供たちが記憶する前世の「イメージ」

 

このような条件をクリアした研究としては、

イアン・スティーブンソン博士の

『前世を記憶する子供たち』

という著作が最初のものであろう。

ここでは表題どおり、

前世を記憶する子供たちの記憶を検証している。

ティーブンソン博士の報告によれば、

子供たちが前世の記憶 (その生の人間関係や使用していた言語など)

を語り始めるのは、2歳から5歳。

平均3歳2カ月となっている。

そして、大多数の子供が、

5歳から8歳までのあいだに前世の話をしなくなるという。

なぜ子供なのだろうか。

それは、こうした前世の記憶の中心となるのが、

視覚的なイメージ記憶だからだ。

住んでいた家の様子や、

まわりの風景、

家族や知人の顔、

自分が死んだときの状況についての

「イメージ」が刻み込まれている。

子供たちが言葉を話せるようになってくると、

そのイメージを言葉に置き換えて、

周囲の人に伝えようとする。

ところが、心理学の研究によれば、

イメージ記憶の再生・保持能力は、

5歳ごろを境に大きく低下することがわかっている。

それはまさに、前世の記憶を語らなくなりはじめる時期に一致している。

ただし、その後も

食べ物の好みや恐怖症などの

「前世の人格」を引き継いだ

と考えられるような行動パターンは、

引き続き思春期ごろまで保たれるようだ。

 

前世を記憶する子供たちの実例

それでは、実際に子供たちの記憶が正しいと

実証された例をいくつか抜粋してみよう。

 
◎バスにはねられた前生の記憶―カマルジット・コウ

 

その子供はインドのパンジャブ州のシーク教徒の家に教師の娘として生まれ、

名前はカマルジット・コウといった。

ある日、父親と連れだって近くの村のバザールにゆく途中で、

少女は突然少し離れた別の村に連れていってくれと言いだした。

驚いた父親は理由を訊ねた。

 

彼女は答えた。

 

「ここはわたしとは何の関係もないの。

ここは私の家じゃないんだから。

あの村につれていってちょうだい。

学校の友達と自転車で走っていて、

わたしたち二人ともバスにはねとばされたの。

友達はその場で死んでしまったわ。

わたしは頭と、耳と、鼻に怪我をしたの。

事故のあった場所から運ばれていって、

近くの小さな裁判所の前のベンチに寝かされたわ。

それから村の病院に連れていかれて、

血がものすごくたくさん出て、

父さんと母さんと親戚の人たちがやって来た。

田舎の病院で、治療のための設備がなかったから、

みんなはわたしをアンバラに連れてゆくことにしたの。

お医者たちがわたしはもう治らないと言ったものだから、

わたしは家に連れて帰ってくれるように親戚の人たちにお願いしたの。」

 

父親はあきれたが、

あまり娘が言い張るので、

単なる子供じみた空想話だと思いつつも、

とうとうその村に連れてゆくことにした。

 

約束どおり二人でその村に向かう道すがら、

彼女は自分がバスにはねられた場所を指さしてみせた。

輪タクに乗せてくれとせがみ、

乗せてもらうと運転手に行く先を告げた。

やがて民家の立ち並ぶ一角にやって来ると、

自分はここに住んでいたのだといって、

リクシャを止めさせた。

 

少女と当惑している父親の二人は、

彼女のかつての家族のものだという一軒の家に向かって歩いた。

父親はまだ娘の話が信じられず、

近所の者をつかまえて、

カマルジットのいうような娘を亡くした家がその辺りにあるかどうか聞いてみた。

村人はその話を認め、

呆然とする父親に、

その家の娘はリシュマといい、

16歳で死んだのだと話した。

リシュマは病院から家に向かう車のなかで死んだのだった。

事のなりゆきに強い不安を感じた父親は、

家に帰るようカマルジットを説得しようとした。

しかし彼女はかまわず目指す家に入ってゆき、

学校時代のリシュマの写真をみせてくれとたのんだ。

そして実に懐かしそうに写真に見入ったのだった。

リシュマの祖父と叔父がやって来ると、

彼女は知るはずのない二人に名を誤りなく呼んだ。

かつての自分の部屋をそれと認め、

ひとつひとつの部屋に父親を案内してみせた。

そして学校の教科書、

銀の腕輪とリボンをそれぞれふたつずつ、

それに新しい栗色の外出着を見たいと言った。

リシュマの伯母はそれらがすべてリシュマのものであったことを認めた。

それから彼女は伯父の家に向かい、

さらにいくつかのものの由来を言い当てた。

翌日、彼女はかつての親戚一同にあった。

バスの時間になると、

そこに残るといって聞かなかったが、

ようやく父親に説得されて二人で帰っていった。

カマルジットの家族は断片をつなぎ合わせてみた。

カマルジット・コウはリシュマの死後十カ月して生まれた。

まだ学校に行かないうちから、

カマルジットはよく本を読む素振りをしたものだった。

リシュマの学友たちの写真を見て全員の名前を言い当てた。

また、カマルジットはいつも栗色の服を欲しがっていたが、

調べてみると、

リシュマはかつて新しい栗色の外出着をプレゼントされ、

それをとても自慢していたのだが、

結局一度もそれを着て出ることはなかったということがわかった。

カマルジット・コウが前世について最後に思い出したのは、

病院から家に向かう車のライトだった。

その明かりを目にしながら、

彼女は死んでいったのだろう。

.....(中略).....

 

この話の興味深いところは、

実際のところ、

カマルジットの家族が事のなりゆきに相当動揺していて、

「村の人たちが何と思うだろう」と、

ひどく不安がっている点である。

しかし、それよりもはるかに有効な裏付けになると思えるのは、

リシュマの家族みずからが、

疑ってはみたものの、

カマルジット・コウは間違いなく彼らのリシュマである

と信じざるをえないと認めている点である。

それらは自分たちの宗教に詳しいわけではなかったし、

シーク教が生まれ変わりを認めているかどうかも知らなかったが、

そう信じざるをえなかったのである。

 

(イアン・スティーブンソン『前世を記憶する子供たち』)

 

◎前生の自分の死を記憶する少女

スリランカのシャムリニー・プレマという1962年生まれの女性は、

幼児のころから、

水に対する強い恐怖心と、

バスに対する恐怖心を持っていた。

話ができる年齢になると、

彼女はそこから2キロほど離れたガルトゥダワ村に住んでいて

数年前に死んだ女の子の生まれ変わりだと語りだした。

彼女の語るところに従うと、

その女の子がある日、

パンを買いに出たところ、

大雨で水びたしになった道路をバスが走ってきて、

彼女に大量の水しぶきをはねかけた。

その拍子に、彼女は近くの田圃に落ちて溺死したのだという。

シャムリニーはさらに、

その女の子の両親のこと、

姉妹のこと、

学校の同級生のこと、

家の様子などを語った。

調べてみると、

ガルトゥダワ村には、

たしかにシャムリニーのいう通りの一家が住んでいて、

彼女のいう通りの死に方をした女の子がいたのである。

その子が死んだのは、

彼女が生まれる一年ほど前だったという。

 

(立花隆臨死体験 下』文芸春秋)

 

◎前生の言葉を話す少女

シャンティ・デヴィは、1926年に旧デリー市内で生まれた。

3歳のときからシャンティは、

前世にまつわる“お話”をして家族をおもしろがらせるようになった。

それによると、自分はかつて

ケーダール・ナート・チョーベイという男性のもとに嫁ぎ、

デリーからさほど遠くないマトゥラーに住み、

子供が二人いたが、

1925年、第三子の出産後に死亡したという。

......(中略)......

シャンティ・デヴィも、

夫や子供と一緒に暮らしていたという

マトゥラーの自宅について詳しく語っている。

前世では、ルジという名前だったという。

また、前世の実家や嫁ぎ先の親戚についても、

前世時代の生活や死に様についても話している。

......(中略)......

両親がもはや娘の“お話”をやめさせることができなくなった段階で、

大叔父のキシュン・チャンドは、

シャンティの話にはどの程度の事実が (もしあるとすれば)

含まれているのかについて問い合わせる手紙をマトゥラーに出した。

宛先はシャンティが指示した住所であった。

手紙を受け取った男性は、

それを読んで仰天した。

ケーダール・ナートというこの男性は、

妻のルジを失った悲しみからいまだ抜け出せずにいたのであった。

ルジは1925年、出産後に死亡していた。

敬虔なヒンドゥー教徒ではあったが、ケーダール・ナートは、

ルジが生まれ変わってデリーに住んでおり、

二人で送った生活を正確に記憶しているという

事実を受け入れることはできなかった。

ある種の詐欺を疑ったケーダール・ナートは、

デリーに住む従兄のラル氏に、

その少女について調べ、

問い質すよう依頼した。

少女が人の名をかたっていたとすれば、

従兄がそれに気づくはずであった。

ラル氏が商用を装ってデヴィ宅を訪れたとき、

シャンティが玄関を開けると、

甲高い歓声を上げ、

驚くラル氏の胸に飛び込んできた。

母親が玄関に出てくると、

ラル氏が口を開かないうちに、

シャンティ(当時9歳)は、

「お母さん、この人、主人の従兄なの。

マトゥラーで私たちのすぐそばに住んでたんだけど、

今はデリーに引っ越してるの。

会えてとってもうれしいわ。

ぜひ中に入ってもらわなくちゃ。

主人や子供たちのことを知りたいのよ」 

と言ったのである。 

シャンティー家とともにラル氏は、

何年にもわたってシャンティが証言してきた事柄が

全て事実である事を確認した。

その結果、シャンティ一家は全員一致で、

ケーダール・ ナートと最愛の息子を

デヴィのため自宅に招待することにした。

ケーダール・ナートが息子とともに自宅を訪れると、

シャンティは二人を愛称で呼びながら、

......(中略)......

もてなしたのである。

ケーダール・ナートが涙を見せるとシャンティは、

ルジとケーダール・ナートしか知らない優しい言葉で慰めた。

やがて、新聞に特集記事が掲載され、

さらに著名な研究者が調査に加わるようになった。

研究者たちは、

シャンティをマトゥラーまで連れていき、

そこで前世を送り死んだという家まで案内させることにした。

汽車がマトゥラーに着くと、

シャンティは歓声を上げ、

プラットホームにいる数名の人々に手を振り始めた。

そして、同行していた研究者たちに向かって、

夫の母親と弟だと言った。

その言葉は事実であった。

しかしもっと重要なのは、

汽車を降りてその人々と話し始めたとき、

デリーで身につけたヒンディー語ではなく、

マトゥラー地方の言葉を使っ たことであった。

シャンティはそれまで、

この言葉に接したこともなければ、

それを教わったこともなかったのである。 

......(中略)......

この事例は次第に有名になり、

ついには外国でも報道されるに至り、

各地の学者がこぞって検討の対象とするようになった。

 

(ロバート・アメルダー『死後の生命』 TBSブリタニカ)

 

古代の生を思い出して小説にした作家

1937年、ジョーン・グラントは

エジプト第一王朝のファラオの娘を主人公にした

『翼あるファラオ』という小説でデビューした。

だが、これは小説とは言い切れない作品であった。

というのも、彼女は

「自分がファラオの娘であった前生の記憶を書いた」

だけだったからである

1907年アメリカ生まれのグラントは、

幼少時から

「自分はファラオの娘の生まれ変わりだ」

と口にしていたが、

だれも本気にしなかったという。

その後、あるきっかけから

ファラオの娘だった時代の記憶がありありとよみがえるようになり、

時代考証の資料集めもせずに原稿を書いていったのだ。

彼女にとって、この作品は「自伝」ともいうべきものだったという。

その後もグラントは

『ホルスの目』(エジプト第十一王朝の終わり)、

『地平線の領主』(エジプト第十二王朝の始め)、

『そしてモーセが生まれた』(エジプト第二十王朝ごろ)、

カローラとしての生』(十四世紀ごろのスペイン)、

『楽園への帰還』(古代ギリシア)、

『深紅の羽飾り』(コロンブス以前のアメリカ)

といった作品を発表している。

これらの「自伝」が正確かどうかは検証を待たねばならないが、

成長してから過去の自分の生を思い出し、

それが史実と合致していたという例がほかにも存在している。

つまり、前世を思い出すのは子供だけではない。

 

前世を否定していた精神科医が前世を思い出した

その一例が、アメリカの精神科医ノーマン・シーリー博士だ。

ノーベル医学生理学賞を受賞した

生理学者ジョン・エックルズ卿の弟子であり、

「前世」という考え方からは最も遠い人であるともいえる。

そんなシーリー博士が、1974年に初めてロンドンを訪れた。

そして、目的地の王立外科大学の建物を見た瞬間、

博士は「この建物を見たことがある」という

デジャ・ヴュ(既視感)に襲われたのである。

もちろん、博士はデジャ・ヴュなどは否定してきた立場にあるため、

過去に写真で見たことがあるのではないか、

などと疑ってみたが、その経験はまったくなかった。

さらに驚くことがあった。

博士の頭に浮かんだ建物内部の構造が、

実際の構造と違っていたのだ。

博士の「記憶」によれば、

研究室のとなりに手術室があり、

その前にコの字形の長い廊下が続いていたはず。

よく聞けば、150年前にこの建物は大改造が行なわれていたとのことだった。

博士は、自分の記憶にしたがって、

建物の構造を詳しく書き記して、

案内の研究員に見せた。

その研究員も興味を示し、

資料室の奥から古ぼけた設計図を取り出してきた。

博士の書いた建物の構造は、

その150年前の大改造以前の

王立外科大学の設計図とまったく同じものだった。

しかも、そんな古い設計図は、

ほとんど存在すら知られていないものだったのである。

シーリー博士は、

19世紀に王立外科大学の第一人者だった

ジョン・エリオットソンとしての前世を有していたという。

実際、研究分野も似ており、

また在職中に医学の偽善を告発しているところも共通している。

このような数々の一致から、

「デジャ・ヴュは錯覚にすぎず、転生は非科学的である」

と考えていたシーリー博士は、

「自分がエリオットソンの生まれ変わりである」

と信じるように180度転換してしまったのである。

 

考古学者が認めた前世記憶

このような例をもう一つ挙げておこう。

これは考古学者によって前世の記憶が確認された例である。

 

◎紀元前一世紀の古代都市に生きたアーサー・フラワーデュー

アーサー・フラワーデューという、

英国のノーフォークに住む初老の男性の話である。

アーサー・フラワーデューは12歳のころから、

砂漠に囲まれた大きな都市とおぼしい、

不可解な、しかし鮮明な幻影を見るようになった。

さまざまなイメージにまじって、

崖の斜面にうがたれた石窟寺院のイメージが

頻繁に彼の心のなかに現れた。

......(中略)......

成長するにつれて彼のなかの幻の都市の細部はより鮮明さを増した。

そしてさらに多く の建物、街路の配置、兵士たち、

峡谷を抜けて都市へ入る進入路といったものを見るようになった。

すでに壮年になったアーサー・フラワーデューは、

ある日テレビを見ていて、

ヨルダンの古代都市ペトラをあつかった記録映画に目を奪われた。

何十年も心のなかに持ち続けてきたまさにその風景を、

生まれて初めてその目で見たのだ。

彼は仰天した。

彼は、それ以前にペトラに関する本などを見たことは一度もなかった、

と証言している。

やがて幻視のうわさが広まり、

彼がBBC (英国放送協会)のテレビ番組に出演するにいたって、

ヨルダン政府が彼に興味を示すようになった。

実際にペトラを訪れたときの彼の反応をフィルムに収めるべく、

BBCの番組担当者とともに彼はヨルダン政府に招待されたのである。

海外旅行といえば、

かつてフランスの沿岸都市を訪れた短い旅行が、

彼のたった一度の海外旅行だった

旅行に先立って、

アーサー・フラワーデューはその古代都市に関する著書もある

ペトラの世界的権威に引き合わされた。

その専門家は彼にこと細かに質問したが、

フラワー デューの知識の正確さに戸惑いを隠せなかった。

彼の答えのなかには、

その地域を専門とする考古学者の間でしか

知らされていないような事実が含まれていたのである。

BBCは旅行前の彼のペトラの描写を記録に取った。

ヨルダンで実際に目にすることになるものと比較するためである。

フラワーデューはペトラの幻視のなかから3つの場所を選んだ。

都市のはずれにある火山の形をした奇妙な岩。

彼が紀元前1世紀に自分がそこで殺されたと信じている小さな寺院。

考古学者たちの間ではよく知られているが、

その用途が今もって明らかにされていない、

都市のなかの謎の建物。

この3つである。

前出のペトラの専門家は火山の形をした岩についての記憶がなく、

その存在を疑った。

また、その小さな寺院が位置する

一対の写真をフラワーデューに見せたところ、

彼は正確にその寺院を指さして見せて専門家を驚かした。

さらに彼は、こともなげに謎の建物の用途を説明してのけたのだが、

それはこれまで誰も思ってもみなかったものだった。

その建物は二千年前に彼が勤めていた衛兵の詰所だというのである。

やがて彼の予言のかなりの部分が事実であることが確認された。

ペトラに向かう途中で、

アーサー・フラワーデューは例の奇妙な岩に一行を案内した。

都市に入ると、

地図にたよることもなく、

まっすぐに詰所に向かった。

そして、当時行われていたという

衛兵たちのための特殊な入室検査を実演してみせた。

最後に、紀元前一世紀に彼が敵軍の槍に倒れたという寺院を訪れた。

おまけに彼は、

その付近に埋まっている未発掘の建造物の

位置と用途について語りはじめたのである。

何の変哲もない一人のイギリス人がこの町に異常なまでに詳しい。

アーサー・フラワーデューに同行したペトラの専門家と考古学者たちに

この事実を説明するすべはなかった。

その専門家ジョアン・フォアマンはのちにこう記している。

「彼の話は細部にわたった。

そして、その多くが考古学及び歴史学の既知の事実と見事に一致していた。

これの記憶ほどの規模で、

少なくとも彼がわたしに語ったほどの規模で、

彼が嘘の網を張りめぐらしているとしたら、

その嘘をつきとおすために、

彼は今の彼とは全く違った人格を必要とするだろう。

わたしは彼がペテン師だとは思わない。

彼にそれだけのペテンをやってのける才能があるとは思えないのだ。」

転生以外にアーサー・フラワーデューの異常な知識を

説明できるものがあるだろうか。

彼はペトラに関する本を何冊も読んでいたのかもしれない。

あるいは

その知識をテレパシーでどこかから受け取っていたのかもしれない。

その気になれば何とでも言える。

だがそれにしても、

彼がだれ一人として知ることのなかった情報を知っていた

という事実は残るのである。

 

(ソギャル・リンポチェ『チベット生と死の書』)

 
転生仏ダライ・ラマの「試験」

ダライ・ラマ(十四世)は、チベット仏教の最高指導者であり、

人々から観音菩薩の化身と信じられている人物である。

先代のダライ・ラマ十三世は、1933年にその生涯を閉じた。

チベットの人々はその死を悼んだが、

しかし、彼らはダライ・ラマが本当にいなくなったとは思わなかった。

いったんは息を引き取っても、

また別の身体を借りて生まれ変わってくると信じていたからだ。

実際、チベットではダライ・ラマが逝去するたびに、

生まれ変わりの子供探しが行なわれており、

そこでダライ・ラマの生まれ変わりと

認められた子供が後継者となる習わしがある。 

ダライ・ラマ十三世が逝去すると、

直ちにチベット政府は生まれ変わりの子供の捜索に乗り出した。

まず、チベットの摂政は、

首都ラサから約150キロメートル離れた

ラーモィ・ラッツォーという湖に赴いた。

この湖では、未来の光景を見ることができると信じられている。

摂政はここで「Ah」「Ka」「Ma」というチベット文字と、

緑色と金色に輝く屋根のある僧院、

トルコ石のような青緑色の瓦でふかれた家の幻影を見た。

高僧たちは、この時の光景を詳細に記録した秘密文書を持って、

その光景に似た場所の捜索を開始した。

そしてついに、

セラ寺のキウッサング・リンポチェを隊長とする一行が、

アムド地方で秘密文書の記述と一致した場所

–––トルコ石の瓦の家を発見したのである。

一行は、そこで2歳になる一人の男の子の存在を知った。

捜索隊の隊長であるリンポチェは、

わざと粗末な服を着て使用人に扮し、

部下の者を隊長に仕立ててその男の子に会った。

すると男の子は、偽の隊長の方にではなく、

使用人に扮したリンポチェの方に歩いて行き、

その膝に乗ろうとした。

さらにリンポチェが身に付けていた数珠に目を留め、

その数珠を欲しがった。

実は、その数珠は故ダライ・ラマ十三世が愛用していたものだった。

そこで、リンポチェが

「わたしの名前を当てたらあげよう」

と質問してみたところ、

使用人のなりをしていたリンポチェに対し

「セラ・アガ(セラの高僧)」と答えたのだ。

そして、本当の隊長がリンポチェであることを当てただけではなく、

下級官吏の正体も見破り、

その名前まで言い当てた。

さらに、一連の資格試験において、

ダライ・ラマ十三世の持ち物だった他の数珠や、

歩行用の杖、

太鼓を選び出し、

独特の祈祷のリズムを正確にその太鼓で打ってみせたのだった。

これらに加え、

ラーモィ・ラッツォーの湖に現われたチベット文字

「Ah」がアムド地方を、

「Ka」がこの地方最大の僧院クンブン寺を、

「Ka」「Ma」の二文字が

その村外れの山頂にあるカルマ・ロルファイ・ドルジェ寺を

それぞれ示すこと、

そのドルジェ寺にダライ・ ラマ十三世がかつて滞在した

という事実などが決め手となって、

この男の子は正式にダライ・ラマの生まれ変わりとして認められた。

そしてポタラ宮殿に迎え入れられ、

ダライ・ラマ十四世として即位したのである。